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"もっと違うやり方をしなくてはならない。観ることも、書くことも、感じることも。映画とは結局、夢に描いた物を見せてくれるものなのだろうか。『エンジェル』という映画の主要な舞台となる、「パラダイス」という名前の立派な豪邸。女流作家として一躍有名になった主人公はこの家を買い、恋人を住まわせ、彼女が幼い頃から憧れていた、優雅な暮らしを手に入れる。彼女にとってのパラダイスは、私たちにとっての映画のようなものだ。夢や憧れを、具現化したもの。@0,しかし、映画とは結局は、ウソ物語であり、空想である。ドキュメンタリーであったとしても、その切り取り方に人の主観が入り込む。パラダイスという豪邸を主人公は手に入れる訳だが、その資金源は、彼女が自分の空想を文章にした「小説」の販売である。そして小説も、もちろん芸術ではあるが、空想であり、夢物語であり、ウソの世界だ。彼女は空想を売ることで、空想を具現化したものを手に入れたのだ。監督の『フランソワ・オゾン』も、映画監督という立場でありながら、多分このような冷ややかな視点で、映画を作っていたと思う。@0,というのも、出てくる映像映像、古き良き映画の感じを漂わせていて、懐古趣味とも言えるものなのだ。これは、チープな映像を含め意図的にそうしていると思われる。『風と共に去りぬ』のオマージュという意見もある。そういう昔の映画っぽさを楽しむ。そういう見方、楽しみ方は確かに存在する。しかし、私たちは今という現実を生きなくてはいけない。この映画が、ただの懐古映画に堕せずに済んだのは、過去の名作映画に対し、距離を取った上で、そのオマージュをしたからだ。@0,『エンジェル』は、夢を見せる映画でもなければ、ただの悲劇映画でもない。映画に描かれない物を描くという、斬新な試みだ。そしてそれは、最後のシーンによって、成功した、と思っている。最後のシーン、それは映画のフレームに、それまで入ってこなかったものだ。夢のような映像でも、ドキドキハラハラするシーンでもない。しかし、それこそがリアル、ウソではないものなのだ。映画が提供している心地よさやエンターテイメントから抜け出て、世界を深く捉えなおそうとする時、「エンジェル」はそのきっかけとなる一歩を与えてくれる。そしてこのレビューサイトも、そうでありたい。楽しさ、満足度という観点は捨て、映画から一瞬覗く、リアルなものへと目を向ける。@0, 色々な人に取り上げられることが多い映画だと、観る前に観たような気分になることがある。『ファイト・クラブ』は超有名な映画ではないが、だからこそそれを持ち出して語る人は多い。@1,例をあげると、NHK教育のある番組では、『ボードリヤール』が語った、現代の記号的な消費の空虚さを説明するための素材として、この映画が紹介されている。@1,確かに、主人公に『ブラッド・ピット』演じるタイラーが話す言葉を聞いていると、お金を稼いで物を買い足し、それを部屋にどんどん置くことに何の意味があるのだろうか、という気持ちにさせられる。彼の消費批判は的を射ている。一方で、労働と消費の代わりに彼が主人公に勧めるのは、肉体を使い、人と文字通り「闘う」ことだ。それは果たして、意義のあることなのだろうか。@1,『Mr.Children』の「FIGHT CLUB」という曲では、手当たり次第に敵を見つけ、それと闘うことに生きる意味を見いだしていた昔の「お前」を、この映画に出てくる、タイラーを信奉する人々と重ね合わせている。その目線は、若い頃の過ちを見るように、反省的・批評的である。@1,『ファイト・クラブ』は確かに、あらゆるものを空疎なもの、無意味なものと見る厭世的な雰囲気を持っている作品ではある。生きること、死ぬこと、金を稼ぐこと、闘うこと、、。そして、この作品を持ち出すことで、自分が世界に感じている空疎で無意味な印象を、説明することもできる。@1,しかし、そこで終わらないのが、この『ファイト・クラブ』が、単なる批評を超えた、優れた物語である点だと思っている。あらゆるものを空疎なものとみなそうとしても、消えきらないもの。それをこの映画は最後に描いている気がした。それは自分がこの作品を実際に見て、感じたことだ。だから、この映画をまだ観ていない人は、人の意見ではなく、実際に観た映像、観た物語から、語るべきものを取り出してみることをお勧めする。@1, 児童向け作品を、わざわざ見ようという大人はそんなに多くないだろう。それは一体何故だろう?とふと思う。児童向け作品にも面白いものは多いのに。思うに、一つは先が読めてしまうことにある。子供に、夢を潰すような話は見せられない。例えば『モモ』では、時間泥棒が人から時間を盗むが、さすがに盗んだままで話が終わることはない、ということは読む前から分かる(モモは、独創的な描写にあふれているので、それでも魅力は損われないけれど)。しかし、その決まった型に囚われない児童向け映画も存在する。@2,『若おかみは小学生!』も、まさにそういった挑戦的な映画の一つだった。主人公のおっこは、ある理由で温泉街に一人やってきて、祖母の旅館で働くことになる。人と仲良くなること、仕事を覚えること…そうした目の前の課題を一つ一つ解決していくおっこは、子供たちのお手本になるような立派な子なのである。出来ることは増え、人とも仲良くなる。ラストまでの道筋が、はっきりと見えているように思われた。しかし残り15分といったところで、とある予想もしなかったことが起こる。@2,やはり実際の人間の心は、物語のようにうまく思った通りにいくというものではないのである。そのことを心のどこかで知っているからこそ、大人は児童向け作品を避けてしまうのかもしれない。そしてこの『若おかみは小学生!』は、人間のリアルな心に丁寧に寄り添っている。加えて、人物の動きなども非常にリアルに描写されているから、見る側に主人公の気持ちが強く伝わってくる。@2,物語のシチュエーションは「千と千尋の神隠し」にかなり近いけれど、物語の方向性は結構違う。『千と千尋の神隠し』は、主人公がどんどん強くなっていく。一方この映画は、だんだんと登場人物の弱さ、心の脆さのようなものが見えてくる。強くなることも必要だけれど、心の弱さに気付くことも大切だ。特に、大人たちにとっては。@2,他人の不幸は蜜の味、というけれど、私たちが時に映画で他人の悲しみを見たくなるのは、人を見下したいからではなくて、誰もが悲しみを背負っていることを再確認したいからなんじゃないかと思う。出来るだけ悲しみのことを考えずに生きていたいけれど、悲しみが間違いなくあるのに、それを無視するのもなかなかに辛いのだ。『幸福路のチー』を映画館で見た時、隣でおばさんが号泣していて、少し心が軽くなったのを思い出した。ああいう大人向けのアニメがこれからも見られることを願うこの頃である。@2, 『スターウォーズ』シリーズとかもそうだけれど、根強いファンがいる映画の新作を作ることは非常にハードルが高い。当たり前だが、ファンは過去の作品が好きだ。だからこそファンなのである。かと言って、過去の作品と似たようなものを作れば満足するかといえば、そうではないのである。それは過去の作品を上書きすることになるから、なのかもしれない。@3,世の中的には『シン・ゴジラ』は大成功ということになっている。確かに興行収入の面では良かった。しかし、その内容を考えてみると、ほぼリメイク作品といった感じで、新しさは無かった。1作目を基にしたストーリーなので、2作目以降の歴史がなかったことになっている。原点回帰とも言えるが、リセットとも言える。ゴジラ以外にも様々なユニークな怪獣が登場し、時にゴジラに日本が守られることもあるような、2作目以降の世界観が好きだった自分にとっては非常に残念だった。@3,しかしそれは仕方ない部分もある。ゴジラは大人向けの社会派映画に振り切ることも出来るし、子供も楽しめる怪獣バトル映画に振り切ることも出来る。その振り幅がゴジラの魅力だが、だからと言ってこの2つを1つの映画にまとめて表現することは不可能だろう。そう思っていたから、アニメ映画三部作『GODZILLA』のストーリーは衝撃的だった。@3,『GODZILLA』三部作は、アニメかつSFということで、一見ゴジラの伝統をぶち壊すような作品に見えて、実はゴジラファンに寄り添っている作品である。大人向きの、シリアスで難解な話の中に、ゴジラ、モスラ、メカゴジラ、キングギドラという人気怪獣を登場させている。その他にも、双子の少女、誘導作戦、宇宙人(ゴジラには宇宙人も何度か出ている)といった、ゴジラ的なモチーフを入れ込んでいる。こうした、ゴジラの子供っぽい部分もわざわざ拾ってくるところに、作者の思い入れを感じる。@3,映画に登場する怪獣は、それぞれ物語において重要な意味を持っている。もともとこうした怪獣は、怪獣バトル要員だったこともあり、その意味について深く考えられてはいなかった。しかし、原作者・脚本の『虚淵玄』による新たな解釈によって、大人向けの話でも登場できるように新しく生まれ変わったのだ。ゴジラの持つ様々な要素を上手く1つのストーリーに収めたという点で、ゴジラの新たな歴史を作る作品になったのは間違いない。@3,確かに新たな歴史にはなったのだが、もう一つの軸、作者の創作物として新たな歴史を作ったのかと言われると微妙だ。後半になるにつれ、作者の過去の作品『魔法少女まどか⭐︎マギカ』のストーリーに近づいていく。まどかマギカも、今までの魔法少女ものというジャンルを、今までにない解釈で捉え直したことでアニメの歴史に名を残す作品になったが、結局今回のゴジラの捉え直しは、そのまどかマギカの焼き直しに過ぎない。@3,傑作でも、それをもう一度繰り返したものは、やはりオリジナルに比べて劣ってしまう。今回、『ゴジラ』の繰り返しは脱したが、自身の作品の繰り返しからは脱出することが出来なかった。なかなか難しい問題である。@3, 昔の文学を読むように、昔の名画を観ることができる、と思う。ただ昔の古き良き時代を懐かしむ、という目的ではなく。例えば夏目漱石の『こころ』が学校の授業で扱われるのは、明治時代の風俗を知る、という意味ももしかするとあるのかもしれないが、やはりメインは、時代を超えて普遍的な問いについて、考えることにある。@4,『アンドレイ・ルブリョフ』を観始めた時も、50年以上前のソビエト連邦で制作された、中世のロシアを舞台にした映画、という事前情報を前にして、一体どういう態度で映画を見ればいいのか、よく分からなかった。制作された時期も、作品の舞台の時期もよく知らない。それでも作品に段々とのめり込んでいったのは、宗教画の画家である主人公が、ひたすら神や善、芸術について、哲学者のように深く考える人間だったからだ。@4,思えば、『罪と罰』を読もうと思ったのも、ロシアの話が好きだからとか、殺人事件が起きるからとか、そういう理由ではなくて、罪とは何か、罰とは何か、そういったことを知りたかったからだった。映画の話が進み、難解な部分に入っていくにつれ、罪と罰を読んでいるような気分になっていった。@4,両者には共通点がある(共通点というか、おそらく『タルコフスキー』監督が影響を受けているんだと思う)。ネタバレにならない抽象度で話すと、神(善悪の基準)=大地、という着地点だ。自分のいる場所の大地・自然と真摯に向き合うこと。それが神に対する敬虔な態度であるということ。それが、東洋と西洋両方の影響を受けた、ロシアが見出した答え、ということなのかもしれない。@4,しかしこの映画にしかない要素もある。遊牧民(タタール人)だ。土地を持たず、馬に乗って自由自在に動き回り、都市を襲撃する彼らは、土地・大地に根を下ろして敬虔に生きていこうとするロシア人と対立する。遊牧民は、映画が作られた後、重要な意味を持つ言葉になる。『ドゥルーズ&ガタリ』の「千のプラトー」という哲学書に登場する概念、遊牧民(ノマド)。資本主義、消費社会にいる現代の人々を、自由な者として、ポジティブに捉えた言葉。遊牧民は本当にポジティブなものなのか。遊牧民が敵・野蛮・脅威として登場するこの映画を観ることで考えさせられることは多い。@4,ただ、やはり『アンドレイ・ルブリョフ』はロシア的な映画として作ってあるから、映画を観ることで、自分たちにとっての答えが見つかるというものではない。ロシアの人が、問題に対してどう考え、どういう回答を出したのかということを確認できるだけだ。やはり自分は自分自身で答えを見つけるしかない。@4,日本人としては、まず「神」の問題を考えなくてはならないだろう。西洋は「神」前提で考えているけれど、普段から真剣に神のことを考えている日本人は少ない。だから、西洋の考えをそのまま取り入れることは難しい。しかし、日本人は日本人としての、問題に対する答えを提示する映画を作れるはずだ。そのポテンシャルを持っているのは『ゴジラ』だと個人的には思う。@5, 『伊丹十三』さんは色々な仕事をした。映画監督、俳優、CMプランナー、エッセイスト、料理人、、。しかし、どれを見ても、そこに伊丹十三という人そのものを感じる。だから、彼の作品は替えが効かないのだ。彼の代わりになる人が存在しないように。@5,「タンポポオムライス」というメニューが日本橋の洋食屋「たいめいけん」に存在するけれど、その由来はてっきりオムライスをたんぽぽの花に例えたものだと思ってたら、どうも映画「『タンポポ』」から取られたらしい。映画にはおいしいオムライスの作り方をホームレスっぽい人が(!)主人公に教えるシーンがある。@5,しかしながら、主人公のタンポポ(『宮本信子』)はおいしいオムライスを作りたかったのではなく、おいしいラーメンを作って自分の店を立て直そうとする過程でオムライスを作るハメになったのだ。ムチャクチャだけど、良いではないか。それでおいしいオムライスの作り方が広まったのだから。@5,もちろん、ラーメンに関する『伊丹十三』さんのこだわりもすさまじい。その度合いは、映画が始まってすぐに、ラーメンの食べ方を老人が延々と語るシーンを入れてくるほどなのだが、あの楽しくなってくるほど溢れ出る知識は、彼のエッセイそのままだ。エッセイでできることを映画でやっても、と思うかもしれないけれど、映画館で彼のエッセイを体験できるのは極上の映画体験だっただろうな、と思う。@5,このnoteを見れば分かる通り、世の中にエッセイは無数にある。けれども彼のエッセイはやはり、いつになっても特別な存在だ。彼は、当時の人が知らない知識や外国の文化を、エッセイで授ける。これがただの知識のひけらかしにならないのは、それらが後に文化としてきちんと浸透していくからだ。もはや啓蒙家に近い存在だ。『タンポポ』の本編が始まる前に、オリジナルのマナー動画が流れるが、当時はきっとまだそういうものは無かったのだろう。当たり前になっている文化の源流を辿ると、伊丹さんがいる。@5,そうした上質なエッセイを再現する一方で、彼は『蓮見重彦』の影響も受けているので、アヴァンギャルドな方法も試みている。断片のような映像で表現されるのは、「食」についてである。日本人にとって「食」とは何なのか。この映画には、そんな深くて遠い射程も隠れている。@5, 『ロミオ+ジュリエット』で描かれる恋には、常に水のイメージがつきまとっている。現代を舞台に翻案しているという新しさはもちろんあるけれど、もともとのロミオとジュリエットには無かった水のイメージもまた、作品に新鮮さをもたらした。ちなみに、劇中ではビーチが出てくるが、舞台であるイタリアのヴェローナには海は存在しない。@3,何故だか、水には自由を感じさせる力がある。『シェイプ・オブ・ウォーター』も、その名前が示す通り、形のない水の有り様、水の中にいると重力が無くなるという水の性質を描き、そこに制約から解き放たれた、自由のイメージを重ねる。自由を表現する上で、水は格好の素材なのだ。@3,ロミオとジュリエットも、愛する自由を求めて生きた人なわけだから、水との組み合わせがうまくいかないはずがない。映画が始まって、『レオナルド・ディカプリオ』演じる美しいロミオが先に登場し、ジュリエットは果たしてどんな感じなんだろうと思っていたら、洗面所の水の中でゆらゆらと髪を揺らす姿が最初に出てくる(カメラは排水溝視点で、ジュリエットを見上げている!)。第一印象の残し方として、実に素晴らしいではないか。@3,水は人を重力から解き放ってくれる一方で、ある種のはかなさも持っている。『ロミオ+ジュリエット』で一番最初に2人が見つめ合うシーン、すごく印象的なシーンなのだけど、ここで2人は水槽越しに向かい合っている。互いの目に映るのは、ガラス越し、水越しの相手の姿。僕たちは話の顛末を知っているから、そこにはかなさを見出すけれど、彼らももしかしたら自分たちの運命を、ぼんやりと感じたのかもしれない。@3,この映画に限らず、水槽が意味ありげに出てくる映画は、叶わぬ自由と、死の予感をイメージとして持っている気がする。『リップヴァンウィンクルの花嫁』の水槽も、そうしたメッセージを醸し出していた。何も喋らぬ存在でありながら、水槽は、水は、確実に映画の中の世界を支配している。@3,ちなみにエンディングソングはイギリスのバンド、『レディオヘッド』。このバンドは救いようもない、絶望的な状況を歌わせたら右に出るものはいないバンドだけれども、初めの乾き切った、ちょっとヤンチャなマフィア的ドンパチ映画から、ラストでその精神性まで持っていった監督の手腕には感嘆するしかない。@3, ちょっと前に流行った映画を今見ると、逆によりリアルさをもって感じられる映画がある。『寄生獣』には人間と人間に寄生する生物との戦いが描かれていて、寄生されている人を必死に選び出そうとしている場面は、まるで現代みたいじゃないか…なんて考えたりも出来る。@4,原作漫画の筋と比較したりだとか、そんな細かいところには立ち入らない代わりに、映画を通して感じた印象を書いておきたい。それは、「人間としての責任のようなもの」を背負わされるような感覚だった。というのも、『寄生獣』は、人間ではないものが人間らしく、本当の人間がむしろ非人道的だ、という構図を強調してくるからだ。@4,人間ではない知的生命体と対話する話でも、例えば『メッセージ』では、人間とは別の形の知性があることが示されていて、見る側としては、そこに対する驚きと、視野が開ける感覚がある。理解出来ない知性というのもそれはそれで厄介だけれど、あまりにも人間らしい相手もまた厄介だ。@4,なぜなら、そうした相手と渡り合うには、相手よりも自分の方が人間的だとした上で(そうじゃないと自らの正義を主張できないから)、かつ相手を抑え込めるほどの武力を保持していなくてはならない。ただ『北斗の拳』のような、武力だけがものをいう世界に比べて、遥かにフクザツである。あらゆる秩序を守り、さらに守るための力も保持する。人間とはかくも大変なのだ。@4,全然関係ないけれど、主人公(染谷翔太)とヒロイン(橋本愛)は、『PARKS パークス』という映画でも共演している。でも同じ2人だということを感じさせない演技で、すごいなと思う。@4,人間側を寄生獣側、どちらを正義とするかで揺れる主人公を演じる、『染谷翔太』の演技が物語の哲学的な部分を支えているが、彼の役の幅は、ドラマも含めると本当に広いので、毎回驚かされる。@4, 男性の撮った映画に、時として女性がモヤモヤするように、『ハイファ・アル=マンスール』さんという女性の監督が撮ったこの映画を観て、モヤモヤする男性諸君もいることだろう。@8,「『メアリーの総て』」の舞台は19世紀初頭のイギリス。当時は男尊女卑の風潮が強くあり、作中に出てくる男どもはやりたい放題だ。彼らは自由を愛していると言うが、彼らの言う自由とは結局のところ、身勝手や無責任を正当化する言葉にすぎない。男性は、「自由」が与えられる時代にいると、彼らのようになってしまうのだろうか?@8,すごく個人的な話をするが、自分は男子校に通っていた時、剥き出しの男性性を見るのがあまり好きではなかった。特に、性的なポスターがたくさん貼ってあったロッカールームは、居心地悪い場所だった。だから、「『メアリーの総て』」の中の男達の振る舞いを見ると、モヤモヤする。@8,しかし、その男性の描き方を「現実と違う」と批判したいわけではない。私はモヤモヤすることで、「男性」とは違う、別のものになるキッカケを与えられたのだ。哲学者の『ドゥルーズ&ガタリ』の言う「逃走線」だ。@8,怪物が有名なホラー小説「『フランケシュタイン』」ではなく、その作者の人生を映画化するのは、観る前は意外な気がしていたけれど、結局フランケシュタインに描かれた恐ろしさは、作者が人生で直面した、人間の恐ろしさから生まれたものだったのだ。その恐ろしさを目の当たりにした私たち観客はどうすべきか?もしモヤモヤを感じたならば、その気持ちを大切にするのがいいのだろう。@8,ここまで書くと、主人公メアリー・シェリーの人生が波乱万丈なのは何となくお分かりだろうと思うけれど、彼女が様々な苦労の果てにフランケシュタインを書いた時、何と彼女はまだ18歳だった!演じた『エル・ファニング』も当時同じくらいの歳のはずなのに、ただのハイティーンではなく、苦労を味わった人の顔をしている。その見事な表現力を、最後に強調しておこうと思う。@8, 「『建築と時間と妹島和世』」は、変にナレーターの紹介とかを挟まない。インタビューアーの声も入れない。初めっから妹島さんの声だけが流れる。自身の構想について淀みなく話しながらも、どこか柔らかさも感じさせる話ぶり。映画館の上質な音響で聞くと、妹島さんという人そのものが、声を通して直接伝わってくるようだ。@5,60分超の上映で私たちが見るのは、1つの建物が出来る過程、ただそれのみだ。監督の『ホンマタカシ』さんの切り取り方は、自分を取り囲む建物、土地、環境に向き合い、頭の中のイメージを形にしていくことの尊さを、はっきりと映し出す。そこに余計な調味料を付け足す余地はないのだ。@5,「『建築と時間と妹島和世』」。このタイトルも、飾り気がなくて素晴らしい。妹島和世という名前が、余計な修飾語をつけることなくポン、と置かれている。最後のクレジットも、普通なら「出演」として妹島さんを出すところで、「建築家」と表現している。私たちは、見せ物を見る観客なのではなく、一建築家の営みをそっと見守る傍観者ということだ。そういう関係性も、またいい。@5,ただ、「『建築と時間と妹島和世』」は、決して「建築家」内で閉じた映画ではない。私たちは誰でも、自分が自由にデザインする余地のある土地、空間を持っている。ホームレスの人だって、高架下で段ボールを組み立てている。@5,私たちは一生をかけて、身の回りの環境を作り続ける。その意味では、誰でも『アントニオ・ガウディ』なのだ。妹島さんのように自由で、真剣で、楽しく、独創的な姿勢でもって、自分も周囲の空間・環境に向き合いたいと思った。@5, 「『ブレイブ ストーリー』」は公開時に劇場で観た。その時自分は8歳の坊やだった。主人公のワタルの父が突然家族を捨てるシーン。家に帰って、倒れている母をワタルが発見するシーン。当時の自分が受けたショックが、映画を見返すと蘇る。過酷な現実を容赦なく突きつけるこの映画を観ることは、小さい子供にとっては、ある種の格闘のようなものだったのだな、と大人になって理解する。@2,「『ブレイブ ストーリー』」の話の軸になるのは、ワタルとミツル、2人の心の葛藤である。2人は、ヴィジョン(という世界)に入る想いは一緒だったが、その後することになる選択は異なる。昔の自分は、主人公ではない、ミツルに心を重ねていた。なぜそれがわかるかというと、ミツルの出ているシーンばかり、観た記憶が蘇ってきたから。そして今もなお、ミツルに心を重ねる、大人になった自分がいる。@2,小説家の『宮部みゆき』さんの本が原作だけれど、小説は映画になっても小説だな、と思う。別に悪い意味で入っているわけではない。小説は一通りの正しさや正義を広めるものではなく、登場人物の心のありさまを分け隔てなく描くものであり続けてほしい。小説を元にした映画だってそうだ。@2, 「『スパイの妻』」。「狭い」映画だ。神戸の街のセットを歩く、家で話す、会社で映像を見る。憲兵に呼び出される。そうしたシーンの連続。なのに、空気は常に緊張感をはらみ、先の展開に目が離せなくなる。@0,それはなぜか。まず、登場人物が「固執する」人間であるというのが一つの理由だ。主人公の聡子(『蒼井優』)には、個人的に死守したいものがある。その姿勢が観るものの共感を呼ぶことで、映画が人ごとではなくなる。@0,一方で夫の優作(『高橋一生』)も、ある映像を見たことで、自らに目的を課し、それに固執するようになる。他に出口はいくらでもあっただろう。しかし彼らは自ら決めたその道を互いに突き進む。狭い視野であるがゆえに起こる結末。限られた場所しか出てこない(これは予算の都合もあるけれど)映像と響き合う。@0,次に、これはやはり『黒沢清』監督の持ち味というところだが、何を考えているか分からない相手を前にする緊張が作品を引き締めている。黒沢監督といえば、ホラーも有名だけれど、結局ホラーの根底にあるのも、目の前にあるものが何なのか分からないことへの恐怖なのだ。@0,「『スパイの妻』」で評価が分かれるなら、「真実」の扱い方についてだろう。彼らが見た映像は、作中では真実ということになっているけれど、それがフィクションなのかノンフィクションなのか、問うことはできない。映像は映像でしかないのだから。残念ながら巷には「嘘が書いてある」という低評価のレビューが見られるが、その批判はお門違いである。@0,ちなみに、原作と脚本は、『濱口竜介』さんで、この人はずっと昔の東京大学映画研究会会長である。それと関係あるか分からないけれど、背広を着た商社の社員の人々が、余興の自主制作映画を楽しげに見ているシーンが心に残った。そこに、理想の映研の姿があるような気がして。@0, 役者の人が、自分を売り込むために自分で脚本を書いて、自分が主演の映画を撮る、という話は割とある。自分が演じる役を自分で作るわけだから、自分が一番生きるようなキャラクターになって、その姿が映画を見た後に強烈に残る。例えば「『ロッキー』」では、シルヴェスター・スタローンの、役者としては欠点とみなされる部分が、むしろ主人公のロッキー・バルボアを魅力的なキャラクターにしている。@6,『マット・デイモン』が自分が演じるために作ったキャラクターは、天才的な頭脳を持ちながら、恵まれない環境で育ったがゆえに貧しく、心を閉ざしている青年だった。とても難しい役どころだが、彼は見事に演じていて、こんなに幅があり、しかも繊細な演技ができる人だったんだ、と見る方は改めて気付かされる。@6,ピアニストとしても名高かった『フランツ・リスト』が、自分で演奏するために、複雑で技巧的なピアノ曲を書いていたことを思い出す。この映画もそうなのだ。役者としての自分を信頼しているからこそ、複雑な心を持つ主人公の物語を書くことができた。@6,この「『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』」は、物語そのものもかなり複雑だ。ベースにあるのは、恵まれない人が、天からもらった才能で幸せを掴む、というアメリカ人お好みのパターンなのだけれど、それを何重にもツイストさせ、ひねりを加えている。@6,この映画と同じく、天才ゆえの人生の悩みを描いた映画だと、「『gifted/ギフテッド』」が記憶に新しい。両者のテーマは似ているけれど、「才能」の登場の仕方が結構違っているように思う。ギフテッドは、最初から才能それ自体が何となく負のイメージをまとっている。@6,一方で「『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』」は、才能が、あたかも不遇な状況を変えるための希望のような形で最初に現れる。だから観る人は最初、ランボー教授と同じように、才能が全てを解決してくれるような、そんな結末を夢想する。しかし物語はツイストし、そうした予想とは全く違った方向に観る人を連れていく。@6,そして「『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』」が最後に行き着くシーン。シーンというかエンドロールなんだけれども、あの終わらせ方もすごくいい。ネタバレになるから詳細は伏せるけれど、何がいいって、あの映像に、主人公のこれまでとこれからが全て詰まっているからだ。120分の長い物語の旅路の、綺麗なまとめになっている。@6,また本作の監督、『ガス・ヴァン・サント』も忘れてはならない。最近GUCCIのコレクションのための映画を撮っている彼は、若者を描くのが上手い。主人公とつるんでいる不良グループの馬鹿騒ぎシーンが序盤に結構あるけれど、ちゃんと主人公が抱えている孤独の冷たさが、そうしたシーンからも感じられる。こうした、若者の有り余ったエネルギーではない部分も見せるような映像を、もっと見てみたいと思った。@6, 初主演を務めた『松たか子』の瑞瑞しさもさることながら、オープニングのクレジットタイトル直後のシーンに心奪われる。霞むほどに降りしきる桜の幕から現れるのは、おごぞかにタクシーに乗り込む花嫁一家。あたふたとバックする引越しトラック。そわそわと花嫁を覗き込む女子中学生。かぱかぱとランドセルを揺らして駆ける新一年生。@9,たった数十秒のシーンのなかで、幾多もの門出や出発が交差する。「新たな行き先」という空間/時間双方の奥行きに誘われる、このシーンがたまらなく好きだ。前衛映画のパイオニアでもあった『マヤ・デレン』(1917-1961)は、映画と時間の関係について、端的な、しかし示唆深い言葉を残している。「映画は、(中略)新たな時間と空間の関係を創造し、目の前に見える現実を、議論の余地のない衝撃をもたらしながら上映するというユニークな機能を備えた時空間芸術なのです」@9,まさに、このシーンがもたらす爽やかな衝撃は、関連するはずのなかった時間どうしを交差させること(『マヤ・デレン』に言わせれば、宇宙の星座を描くこと)にあると思う。赤の他人同士の時間が交錯し、ひとつの空間上に融解すること。それは、スクリーン上の名もなき人々どうしの関係でもあり、観客と彼らの関係でもある。@9,時は、一年を通して変わらず流れているのに、四月になると、人は楔を打って、変わろうとする。お尻がムズムズする忙しさと、時の手綱が波打つ高揚感。そんな日本の四月を味うには、この一本「『四月物語』」だと思う。@9,この一年、春も夏も秋も、いつのまにか終わっていた。次の春こそは、ゆらゆら舞う桜に浮き足立ちながら、道ゆく人の門出を心から祝いたい。春を夢見る全ての人に、この「『四月物語』」をおすすめしたい。@9, 望郷の念というのは、侘しいエゴである。自分を中心に回っていた世界がまだそこにあると、あって欲しいと、切に願うことである。行定監督、高良健吾、橋本愛、姜尚中…熊本ゆかりのメンバーが熊本の地で撮影した短編映画「『うつくしいひと』」(2016)「うつくしいひと サバ?」(2016)を見ながら、妙に腑に落ちてしまった。@8,18年間を過ごした熊本から上京し4年が経とうとしているが、お盆と年末に帰省を重ねるたび、うっすらとした緊張を覚えるようになった。かつて自分が眺めていた風景が、友人を過ごした時間が、すっかり面影を消してしまっているのではないかと不安になるからだ。それは、「『うつくしいひと』」で姜尚中演じる男性が、初恋の相手である鈴子(石田えり)の面影を、その娘・透子(橋本愛)に投影する姿と似通っている。透子が「いい迷惑」と呟くように、まったくもって自分本位な動機である。@8,しかしながら、この投影を"ジコチュウ"とは切り捨てるのはあまりに多くを捨象してしまう。誰もがお互いに、誰か/何かに、今はなき存在の面影を仮託することで、希望をつないでいるような気がするからだ。『ベンヤミン』のいう「引用」のように、現在を破壊し、過去を別の文脈で再生し、希望を繋ぎとめようとしているのかもしれない。誰かを誰か/何かの「亡霊」として眼差してしまうことをやめてしまったら、あらゆる関係性は儚く消えてしまうかもしれない。@8,行定監督の前作「『真夜中の5分前』」(2014)でも、この「持ちつ持たれつ」に関する問いが投げかけられる。上海で時計職人をする良(三浦春馬)が、一卵性双生児の姉妹に恋をするというストーリーなのだが、行定監督はインタビューでこのように述べている。「誰もが人を愛することはあるけれど、何において愛しているのか。それは不確かだということを、この話は浮き彫りにしているんです。これは、自分は恋人の何に対してを愛を持っていたのかを疑う話なんです。その疑いの目を持ったときに初めて、自分という存在に対しても疑いを持つ」@8,「愛すること」は、いい加減で粗い物差しなのかもしれない。しかし、愛を覚えた人は、水を得た魚のように活き活きと人生を闊歩する。「真夜中の5分前」では、そんなアイロニーがほんのり切なく描かれる。一方で、「『うつくしいひと/サバ?』」では、次の一歩へ背中を押してくれるもの、復興の活力となるものとして、あっけらかんと積極的に描かれる。@8, 紹介がミスリーディングだと思う。「『ジョーカー』が悪になるまでを描いた物語」。これを聴いた人は、もう映画の話の筋を知った気になるだろう。しかし、実際の物語は、次どうなるのか分からない緊迫感に満ちている。@7,その緊迫感は、入り組んだ現実と嘘(虚構)から来ている。現実が嘘になった時、嘘が現実になった時、目の前の世界は反転する。反転の瞬間は、いつ来るか分からない。だから怖い。「『マルホランド・ドライブ』」とか、そういった映画を見ている時の緊張感を、まさかこの映画も与えてくれるとは。@7,もちろん、それに加えて「『ジョーカー』」は社会的な要素も持っている。ジョーカーが悪になることも、現実と虚構の区別がつかなくなることも、その根本的な原因には、主人公アーサーの孤独があるからだ。もし、彼が日常的に健全な人と繋がりを持っていたら。その人は客観的な視点で、現実と嘘を見分けてくれただろう。そうすれば現実と虚構の迷宮に囚われることもなかったかもしれない。@7,そうした健全な人との交わりの代わりに、彼はテレビを日常的に浴びる。そしてピエロを演じる。嘘を摂取し、嘘を吐き出すというわけだ。しかしこれは私たちにも言えることなのではないだろうか?舞台であるゴッサムシティの時代は60年代~70年代頃っぽいだが、現代は更に嘘が蔓延していると思われる。「メディアはマッサージである」と『マクルーハン』は言った。メディアの情報は刺激と快楽を与えるが、その行き着く先は現実と虚構の混乱なのかもしれない。@7,音楽も特徴的だ。アカデミー賞で賞を取った深みのある弦楽器のテーマももちろんいいけれど、テレビから聞こえる音楽、街で流れる音楽も、映画に華やかさを与えている。けれど何故か、その華やかさには軽薄さも感じさせる。映画で華やかな音楽が劇音楽として流れるのと、映画の中のテレビとかで音楽が流れるのはやっぱり違うのである。同じくベネチアで賞を取った『シェイプ・オブ・ウォーター』の時はテレビの音も楽しそうだったのに。両者とも主人公は障害を抱え孤独ではあるものの、だいぶ描き方が違うなと思ってしまう。@7, 本作にはドイツ語がしばしば飛び交う。だが、字幕がない。無学な私は、理解できないささめきに苛立っていた。しかし、理解*することを諦めていくうちに、奇妙な感覚を覚えた。風の音、雷の音、雨の音、家畜の声、痛烈な懺悔、憎悪の唾棄、嫉妬の嘲笑。自然音も人間の発話も、同列に聞こえてくるのである。すべてが等しく何かを訴えかけているとすれば、それは「祈り」ではなかろうか。本作「『名も無き生涯』」には、確固たる自信を以って信念を貫く者はいない。ナチスに迎合する者も、拒絶する者も、それ傍観する者も、選んだ道に赦しを得るために、祈る。@4,私が本作「『名も無き生涯』」を通して垣間見た「自由」とは、身体が好きなように動かせることでも、思想を好きなように伝達することに限らない。踏み固めてきた己の道を闊歩しながらも、周りの「祈り」、すなわち赦しの懇願に耳を傾けることである。@4,原題「A HIDDEN LIFE」の通り、本作「『名も無き生涯』」の元となった逸話は、フランツが住んでいた村以外ではほとんど知られていなかった。その意味で、本作は、言葉にならざる物語を描いたとも言える。それゆえ、役者が語る言葉も、息遣いも、牧場のざわめきも全て等しく耳を傾けてしまうのかもしれない。@4,『テレンス・マリック』監督が自然露光で撮った映像は、誰が見ても文句なしに美しい。監督は自身と同じカトリック教徒である主人公の生涯を、その自然のように文句無く美しいものとして描こうとしたのだろうか。実際のところ、主人公に対する感想は観る人によって様々だろう。だからこそ、「善」について深く考えさせられる。@4,キリストが登場する前、古代ギリシャの『ストア派』と呼ばれる哲学者たちは、「善」とは、自然に従って生きることであり、そうした「滑らかに流れる生」が目指すべき目標であると説いた。自身の欲望を出来るだけ抑えて、世界の秩序を守る。「ストイック」の語源となった彼らのスタンスは、キリスト教にも受け継がれている。@4,さて、この「『名も無き生涯』」では、「善」の転倒が起こる。オーストリアの山岳地帯の村で暮らす主人公は、カトリックを熱心に信仰しているあまり、ヒトラーに従って兵士になることを拒み、投獄されてしまう。カトリックを信じることはそれまでは「善」だったはずなのに、その「善」が、周囲に「悪」とみなされるようになる。@4,主人公を「悪」にした周囲の人たちは「悪」なのか? いや、周囲の人たちだって、本当は「善」でいたかったはずだ。主人公のような強い精神を持っていなかっただけなのだ。遠藤周作の小説「沈黙」(マーティン・スコセッシ監督が「『沈黙 -サイレンス-』」というタイトルで映画化している)も、キリストの教えを貫き通すか、楽な道に行くか、選択を迫られる状況を描いているが、そこでは強い精神を持てない人の苦しみに光が当てられている。@4,『ストア派』の言った、自然の秩序に従って生きるというのは一体どういうことなのだろうか、と思う。極限な状況下で、教えに背いてとっさに自分の命を守ってしまうことだって、自然の秩序に含まれているような気がするのだけれど。これは答えが簡単には出ない問題だ。@4,「『名も無き生涯』」に希望があるとするなら、それは主人公の妻の言葉だ。音楽が全然無く、主人公も超無口な本作において、彼女の言葉は少ないながらも強い印象を残す。夫に助言したり、励ましたりする彼女を観るにつけ、やはり人は言葉なしには生きていけないなと思う。周りと折り合いをつけるためには、言葉による語りが、解釈が、どうしても必要だ。秩序を定める聖書も法律も、結局は言葉で、それに対峙するにはやはり言葉が必要なのだ。@4"