レンサイその5:政治・経済・社会

現代の映画だからこその、観る意義というのがあると思う。政治、経済、社会、、同じ世界を生きている作り手と鑑賞者だからこそ、共通する問題意識があるはずだ。
私たちを取り巻く問題は、どれも過去になかった困難なものだからこそ、それに立ち向かう映画は、今までの映画にはなかった価値を手に入れられるのではないか、と思う。
こうした勇敢な映画を取り上げて、その中身を、(時に政治、経済、社会に絡めつつ)取り上げていければと思う。

オリンピック

東京2020オリンピック SIDE:A/SIDE:B
監督:河瀬直美
出演:森喜朗 トーマス・バッハ ほか
公開年:2022


映画はモンタージュという力能を持っている。様々なものを、鑑賞者の意味づける力も借りて、1つにまとめるその力能。現代においてそれは、どこまでのものをまとめられるのだろう。あまりにも大きくて、複雑なものと、我々は対峙しなくてはならなくなっている。オリンピックは、まさに現代の複雑さと混乱の象徴的な存在と言える。そうした存在に映画として立ち向かった作品だと、私は受け取った。


SIDE:Aでは、何人かのアスリートの取材映像をまとめあげ、いくつかの抽象的な観念を表現しようとしていた。女性のキャリア、自然への敬意、競技者としての誇り、、。ただ、そうしたテーマをある1つの競技では描けても、他の競技と繋げられてはいなかった。色んな競技があるので、仕方のないことだが、よく考えると恐ろしいことでもある。自分の世界が、他の人の世界と完全に分離していたら。分かり合うことは出来ないのではないか。

その一方で、SIDE:Bでは、2021にたどり着くまでに乗り越えなくてはならなかった様々な障壁にフォーカスした部分で、競技の枠に留まらない思いを目にできたと思う。震災を乗り越えたこと。1年延期で狂ったモチベーションとの戦い。それまでは描く必要もなかった、開催前までの道のりが、険しいものになったことで、SIDE:Bは生まれたし、それは開催することそれ自体にいろいろあった今回のオリンピックを象徴するものだと思う。


「美しい」映画だったら、そこだけで止めておいてもよかったはずだ。しかしこの映画では、ちゃんと「まとまらなかった」部分も取り上げている。決裂した開会式演出プロデューサー達や反対デモ、マスコミに糾弾される森会長。一つ確かなことは、「まとまらない」ことは失敗だということだ。それは自分の世界が、他の人の世界と完全に分離しているということ、自分が(誰かからは)理解されずに存在しているということだからだ。


仲良い人でまとまっていれば、国全体の不調和を気にしなくても良い、というわけではない。私たちは同じ国の一員として、この国の行先を決定しなくてはならないからだ。まとまらないままでは、理解されない孤独な人は残されたままだ。それはこの映画では、反対側の人でもあったし、森会長でもあった。まとまらないをどうするか。この問いは、古代ギリシャの対話のように、古びることなく存在し続けるだろう。


空海

空海 KU-KAI 美しき王妃の謎
監督:チェン・カイコー
出演:染谷翔太 ホアン・シュアン ほか
公開年:2018


全部がぜんぶじゃないけれど、中国映画は人海戦術というか、大勢の人を使った表現が特徴的なものが多い気がする。そうした大勢の人と、メインキャストの相互作用によって、物語が進んでいく。例えば、チャン・イーモウ監督の映画に出てくる先生と生徒たちのように。あるいは、チェン・カイコー監督の京劇の役者と、その観客たちのように。この物語の初めで、大勢の人と対立するのが、黒い化け猫だ。


化け猫が躍動し(猫の動きは変幻自在ですばしっこい)、それに振り回される大勢の人。時に追い回され、時に強制的に踊らされる。そうした動きが、グリグリ視点が動くカメラワークで強調される。それは一見、3DCGのゲームのようである。しかし、それと異なるのは、描かれるのが全て受動的な行動であるという点だ。振り回され、追い回され、踊らされる。画面の中の動きに、見る側も振り回されるこの感覚。素晴らしかった。(特に踊らされるシーン)

では化け猫は?彼は自分の意図で動いているのではないのか? いや、そうではない、と分かった時に、私のこの映画への評価が決まり、この映画が描き出しているものに圧倒された。それは一言で言うなら、強制された動きの連鎖である。そしてその動きの連なりの大元にある、ある種の絶対的なエネルギー。サブタイトルでなんとなくお察しかと思うが、それこそ王妃なのである。彼女は人間でありながら、人間を超え出た、一種のエネルギーとなっている。


これを見た私は、強大なエネルギーを前にしては、1対多、という関係(要は帝国のような支配関係)は起こってしまわざるを得ないのではないか、という気になった。それは意志でどうにかできるものではない。なぜなら人々はエネルギーによる動きの連鎖の中に入り、大元であるエネルギーは意志とか関係なく、存在してしまうからだ(チャン・ロンロンの存在感は、そのことを雄弁に表現できるほどの説得力があった)。


唯一残念なのは、こうした大きなうねりに対抗できる唯一の存在が、詩人の白楽天と僧侶の空海であるはずなのに、あまりその力を発揮できてないところだった。日本と中国合作で、色々調整しなくてはならなかったかもしれないが。要は2人の映画ではなかった、ということである。詩人や僧侶の世界を描き出す映画を見たい気持ちになった。きっとその映画は、この映画で描いていたエネルギーによる強制された動きの連鎖ではない、新しい世界を描き出してくれるはずだ。(と、本気で思っている)


マッチョ

クライ・マッチョ
監督:クリント・イーストウッド
出演:クリント・イーストウッド エドゥアルド・ミネット ほか
公開年:2022


マッチョとはスペイン語で強い、という意味。では、「強い」とはどういうことか。他者を服従させることができること、では実は、おそらくない。あえて言うなら、次のような感じだろうか。他者に依存せずにいられること。鬼滅の刃の有名なセリフに、「生殺与奪の権を他人に握らせるな!」というのがあるが、あれは強さというものをよく表現している。自分の選択は、消去的なものではなく、自分で選び取ったものでなくてはならない、ということである。


だから、物語は一言で印象が大きく変わる。主人公は、友人の息子を母親の元から「助け」、車で連れ去る。息子にとっては「逃げる」ものであるはずだ。しかし、息子は主人公のこれからどうするんだ、という問いかけにこう答える。「進むことにするよ」。逃げる/逃げない ではなく、進む。なるほど。正直、映像自体は陳腐なものである。しかし、そうした一つ一つの言葉の選択から、上に挙げた「強さ」の意味が滲み出てくる。


そして、自由さに関しては言葉(認識)の自由さだけではなく、拾った車でのらりくらりと走る、その行動の自由さも、この映画にはあって、その2種類の自由さの共鳴が、見た後に清々しい気持ちを呼び起こすような気がする。個人的な印象としては、車で逃避行をする映画で、その自由さが悲しみや虚しさといったイメージにではなく、ポジティブなものに転化されているのが、この映画の大きな特徴だと感じた。


何物にも依存しない、選択の権利を奪われないような、自由な態度をいかに得るか?その鍵は動物にあるのかもしれない。今回、旅の仲間として闘鶏がいることにより、じわじわと化学反応が起こっている。動物は(特にmachoな闘鶏は)自分勝手に行動する。それが、支配-被支配の関係ができそうな時に、関係を崩す契機になる。そして人ー動物の差は広げるなら、言語や文化の差でもある。鶏と人の違い。アメリカ人とメキシコ人の違い。手話ができる人とできない人の違い。。


映画を見て思う。脱・コミュニケーションこそが、強さなのかもしれない、と。つまり他人の目を伺って(全ての反応を見ながら)コミュニケーションを取っていると、自分の意思による選択ができなくなってしまうのだ。それは強さを失ってしまうということである。結局のところ自分の意思がないと、そもそも政治というものは成り立たないのではないか。政治では1人ひとりが強くならないといけない。選挙権とかそういうのとは全く別の次元で。


シーア

ライフ・ウィズ・ミュージック
監督:シーア
出演:ケイト・ハドソン レスリー・オドム・Jr. ほか
公開年:2022


ポップ・スターにあるもの。それは「1対超多」の関係だ。ポップ・スターは自国のみならず、全世界で受容される。全世界にファンがいる、という生優しいものではなくて、ファン以外の人にまで、その曲や存在を認知されている、というレベルの人もいる。。我々が当たり前のように聞いたりして、慣れ親しんでる彼らだが、有名になればなるほど、私たちと彼らの(本当のところの)距離はどんどんと大きくなっていく。


そんなポップ・スターの精神は、普通の人と違うはずだ。そうではないと、身が持たないから。世の中の99.999...%の人が経験しない、「1対超多」の「1」で安定するための点を見つけなくてはならないのだ。BTSの最新アルバム「MAP OF THE SOUL:7」がユング心理学を下敷きにしているそうだけれど、スターの赤裸々な感情の描写がそのまま、私たちの精神を説明する一種の精神分析になっているフシがある。今回の映画の面白さはまさにそこにある。


メインの登場人物、ズー、ミュージック、エボはそれぞれ全く異なった性格をしている。ズーとミュージックは同居、エボはその隣の部屋に住んでいて、3人の交流が描かれる。、、、いや、本当に「3人」なのだろうか?自分の目には、この3人がそれぞれ、この映画を監督したポップ・スター、Siaの側面の1つに見えるのだ。時折挿入される、Siaのミュージック・ビデオのような(抽象的な)パート。そこでは3人が、渾然一体となって、Siaの歌に溶け込んでいる。


ポップスターの要素が、ズー、ミュージック、エボに、非均質的に分配されている。ズーは等身大で愛されキャラ。ミュージックは天才でふわふわしている。エボは善人で努力家。この3人が自分の生き方を模索する過程は、まさにSiaその人が、ポップ・スターというものを抱えたままで、安定した状態を見つけに行く道のりをなぞっているかのようである。ポップ・スターは、多くの人に共感され、驚嘆され、尊敬されないといけない。それらをたった1人でこなすのだ。


しかしSiaは映画監督になって映画を作り、登場人物に自分を分散させた。彼女は伝えたかったのではないだろうか。ポップスターのように1人で全てを達成する必要はない、ということに。Siaのようにポップ・スターにはなれなくても、共感と驚嘆と尊敬を、適切な塩梅で(1つのチームとして)享受することはできる。そういうチーム/関係性を誰かと作れれば。オイディプス的/父権的な家庭構造が否定されつつある今、家族というものに積極的な価値はあるのか。それに対する答えが、この映画の中にあったと思う。


キム

82年生まれ、キム・ジヨン
監督:キム・ドヨン
出演:チョン・ユミ コン・ユ. ほか
公開年:2020


物語というものは、それが破綻していない限り、登場するエピソードが全体として連関しているものだ。時系列が違っていたり、場所が違っていたりしても、それが同じ人物の経験した出来事であれば、その人物を核として、バラバラなものが一つの物語に収斂していく。そして「82年生まれ、キム・ジヨン」という印象に残るタイトルが付けられる。元々小説が原作だが、エピソードを繋げることに関して、映像だからこそできる描き方をしていて、映画と相性の良い原作だと思った。


さて、ジヨンが大きくぶつかる壁----それは現代において、答えがまだ出ていない、全世界的な難問であるわけだが----は、仕事と育児の両立である。どちらかをやろうとすると、もう一方がおそろかになる。外部に頼もうにも、なかなか頼めない(保育園など)。なかなか、どうにもできないことだな、と一瞬思う。しかしこうも思うのだ。その原因は、統合とは逆の、分割にあるのではないかと。本来同一のものを分割させ、それらを対立させているのではないかと。


なぜ、子供が親の目の届く、職場にいてはならないのか。生活と仕事を同じ場でできることは、私たちは既に、コロナ禍でのテレワークで学んだ。家庭とオフィスが切り離されているほど、豊かさが失われていくことも。どちらを取っても、もう一方にかける時間を失ってしまうから。しかし本来、この2つは別のことではないのである。私的生活を豊かにするのが、会社の使命なわけだし、会社で鍛える効率化やアイデアは、会社以外の場所でも役に立つ。


巣鴨にあるシェアハウスの中の、住人の人がメインで使う保育園を運営している人とお会いする機会があった。そこはサテライトオフィスとして使うこともできる。保育士さんもいる(色々試してみて、必要だと判断したらしい)。私は、一つの希望のようなものを感じたのだ。働き方が親の世代に比べ、少しずつ良くなっていっている社会で、まだ先に進めそうな余地を感じたのだ。こういう方向性でも、道は見えてくると思う。


映画の中では、ジヨンは別のやり方で、自分の道を見出すのだが、その選択も素晴らしいと思った。それもある種、生活と仕事をつなぎ合わせるようなものだからだ。統合のやり方はたくさんある。映画だってそうだし、例えば民芸とかもその1つだと思う。全てが必ずしも直接お金につながらないかもしれないが、どれもが豊かさというものにつながっていることは確かだ。そして豊かさを提示できれば、結果的にお金は入ってくる。それが今の社会の良さだと思うのだ。