レンサイその4:ドゥルーズ 「シネマ」を読む

一つ先に断っておくと、ドゥルーズの頃のシネマと、今のシネマは異なっている。
確かにシネマの中身自体は変わっていない。私たちはドゥルーズが観た映画と同じ映画を観ることはできる。しかし、それを観る私たちは、この40年くらいで色々と変化した。
つまりそれこそが、シネマの変化である。映画を超えて、それを観る私たちそのものまで洞察を向けた「シネマ」を著したドゥルーズなら、この宣言からレビューを始めてもそんなに文句は言わないだろう。
私はドゥルーズの紹介する映画を真面目に観る。そして自分の感覚がいかに本と違うか、その差異をじっくり見つめたいと思う。

ケーン

市民ケーン
監督:オーソン・ウェルズ
出演:オーソン・ウェルズ ジョゼフ・コットン ほか
公開年:1941


「過去についての先在、過去のあらゆる層の共存、最も収縮した度合いの存在とはこのようなものである。(中略)こういったものが、時間についての映画の最初の傑作であるウェルズの「市民ケーン」において見出される着想である」
私は記憶によってできているし、私から見える周りのものも、私の記憶(と、外部刺激)からできている。こういった哲学者ベルクソンの視点を表現する映画として、ドゥルーズはこの映画を高く評価しているわけだ。


こうした時間の特性を表現したものに、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」という小説があるし、ドゥルーズはこの本も好きなのだが、市民ケーンがプルーストの小説と異なるのは、主人公が序盤から死ぬ、というところである。この物語で主人公ケーンを彩るのは、彼の記憶ではなく、彼を取り巻く人々の記憶なのである。そしてそれらの記憶には、彼らの感情もまた、封入されている。


つまり誰の記憶かによって、思い出の中のケーンは異なる。最後の、向かい合う鏡をケーンが歩くシーン。ドゥルーズはこのシーンもお気に入りである。「潜在的イメージが増殖する時、その総体が人物の現働性を全て吸収し、同時に人物はもはやもろもろの潜在性のうちの1つにすぎなくなる」
ケーンは、様々な人の記憶から成り立つ存在となる。しかし、記憶を語る人と、記憶の中のケーンには心理的な隔たりがある。彼らの記憶の中で、ケーンの行動は空ぶっているものとしてしか認識されない。そのズレが映画の中で次々と表現されることの悲しみ。


見終わった後に、私はニヒルな気持ちになった。そして、その気持ちはよく考えると、別にすごく新しいものでもなかった。今は容易に、人の視点を覗き見ることができるようになった。そう、SNSである。様々な視点を持った人が様々な書き込みをする。そういう視点の総体を、私たちは受け入れている。そしてニヒルな気持ちになる。周囲と自分との隔たり。行動の空振り。


私は「鬼滅の刃 無限列車編」は、だからこそ、今という時代で輝く映画だと強く思う。またこれは、改めて書くことになるだろうけれど。映画の中で、煉獄杏寿郎は1つのイメージを演じ切った。徹頭徹尾。様々な誘惑のシーンがあったけれど、それを振り払い、一貫して「俺は俺の責務を全うする!!」「心を燃やせ、歯を食いしばって前をむけ」と彼は言う。
その言葉は、様々な視点が入り込み、ニヒルな存在になってしまった現代の私たちに、強く響く。こうした、他人からのイメージの集積から私たちを切り離す存在が、今の映画には求められているのではなかろうか。


マリエンバート

去年マリエンバートで
監督:アラン・レネ
出演:デルフィーヌ・セイリグ ジョルジュ・アルベルタッツィ ほか
公開年:1961


ドゥルーズが本の中で何度も言及している作品。優れた芸術作品は、それがそのまま、物事のあり方の説明にもなっている、と思う。現代美術とか特に。 その意味で、この「去年マリエンバートで」は、本当に素晴らしかった。途中2回寝てしまったけれど。


というのもこの映画は非常に難解なのである。過去の回想、現在の場面、未来の想像が切り刻まれて、バラバラにつなぎ合わされている。今見ているものが現在なのか、過去なのか、分からなくなってしまう(「『去年マリエンバートで』では、もはや既にどれがフラッシュバックなのか、そうでないのかがわからない」)。途中までは、新しい表現の実験に付き合わされている気がして、イライラしていたのも事実だ。しかし、物語が最後に辿り着くシーンに圧倒された。


不倫がバレるのを恐れる女、女から拒絶されるのを恐れる不倫相手の男、その女が出て行ってしまうことを恐れる夫。3人のそれぞれの視点が作品に入り込み、奥行きと緊張感がもたらされているものの、その内容自体は痴話喧嘩的なものである。途中までは面白さを感じなかったそれが、その事実以上のものを伝えようとしている、と最後に気づいたのだ。


女は、夫と一緒にいることで「妻」になっている。しかし、女の中で、別の可能性が浮上する。自分は他の人にも前から惹かれていて(愛されていて)、その人と歩む未来もあるのではないか、と。今の「妻」という現実から抜け出す自由が、記憶のなかの事実と、想像のなかの希望からもたらされる。これこそまさに、ドゥルーズが考える「脱コード化」や「逃走線」といった概念そのものである。


もう一つ気に入っているのが、舞台である宮殿である。「例えば、『去年マリエンバートで』では、館の厚い絨毯の上を進む静かな歩みは、その度にイメージを過去へと導くのだ」とドゥルーズ は言っているが、館の過剰な装飾(何がその場にいるのか、把握が困難)、同じような部屋の連続(記憶の曖昧さ)などが、本作のテーマにマッチしている。そしてこうした舞台設定は、館でパーティーをしても違和感のない、フランス映画だからできたことだなあ、と思う。


男と女のいる舗道

女と男のいる舗道
監督:ジャン=リュック・ゴダール
出演:アンナ・カリーナ ブリス・パラン ほか
公開年:1962


ヌーヴェルヴァーグ(カイエ派)は、革新的な映像表現についてよく語られているけれど、描かれる女性像も、それまでの映画と一線を画している。受動的な存在として描かれてきた女性が、主人公として自分の意思で躊躇なく行動する。実のところ、昔の映画のオマージュ的なものもあったりする映像表現よりも、むしろこの主人公の女性の雰囲気の方が、一つの時代の区切りを感じさせる。


本作の主人公ナナは、夫と離婚し、女優になるためにパリに単身やってくる。それだけでもすごい行動力なのだが、やがてどんどん過激な手段へと足を踏み入れることになる。その最終的な終着点が男の欲望対象としての娼婦になるわけだが、これは男に欲望される女性を美しい恋愛として、1つのクライマックスとして描いていたそれまでの映画(ジャン・ルノワール「ピクニック」とか)と好対照をなしている。


こうしてどんどん俗にまみれるナナなのだが、彼女は深く思い悩む姿も(少なくとも観客には)見せず、淡々と行動していた。この流れの中で出会うのが、哲学者のブリス・パラン(本人)である。同じく哲学者のドゥルーズは、この場面がお気に入りで、こう述べている。「最も感動的な例は、おそらく言語のカテゴリーを展開し個人化するブリス・バランの介入である。それはまたヒロインが全力をふりしぼり、イメージの諸系列を横断しながら接近する限界でもある」


ブリス・バランが話したのは、ドゥマ「三銃士」の中の挿話である。なぜ右足を出すと次に左足が出るのか、ということが急に気になった結果、うまく歩けなくなり、逃げ遅れた人の話。ナナの生き様も、振り返って言語化してしまうと、自由や幸せとは程遠い。私たちはそこで気づく。これまでの彼女が自由に見えたのは、彼女がそうした言語による把握が介入しない世界にいる場面を見ていたからなのだ、と。


ドゥルーズがいう「カテゴリー」というのは言ってみれば、自由なイメージに意味をはめ込む外部の力のようなものだろう。その意味につかまってしまったら、自由なイメージも終了してしまうことになる。これはドゥルーズの、器官無き身体に対する領土化とも対応しているように感じるし、それは同じ人が書いているんだから当たり前なのだが、ゴダールもその仕組みを理解した上で作品に利用しているところが面白いし、知的さを感じる。ただ思うのだが、おそらくゴダールはかなりカタブツだ。映画には笑うポイントもなければ、ツッコミポイントもないという…そんなわけで、レビューも真面目になってしまった。


821

8 1/2
監督:フェデリコ・フェリーニ
出演:マルチェロ・マストロヤンニ アヌーク・エーメ ほか
公開年:1963


この映画自体は、見てもよく分からなかったのだが、ドゥルーズの考えていることは、おかげでハッキリとした。2つ前のレビューに書いた「去年マリエンバートで」と共に、「8 1/2」は「結晶イメージ」の代表例として挙げられるが、ドゥルーズによれば、その2つは対極にあるものだという。


2つの映画の違いは一目瞭然だが、「去年マリエンバートで」は登場人物が少ない一方で、「8 1/2」は主人公が有名な映画監督ということもあり、登場人物(要は主人公の知人である、映画関係者)が山のようにいる。前者は、個人の過去の記憶と未来の想像が、現実に入り込むことで映画が形作られていた。後者は、思い悩む映画監督の前に様々な他者が介入してきて、それを契機に様々なイメージが発生する。つまり個人の思考がどんどん脱線させられていくことで、話が発展していくわけだ。


結局、ドゥルーズが映画を語る上で参考にしているのは、時間に関するベルクソンの考えと、ライプニッツのモナドロジーなのだ。どちらも、イメージに関わるもので、前者が強く現れているのが「去年マリエンバートで」、後者が強く現れているのが「8 1/2」だと考えると、自分の中で整理された感覚があった。モナドロジーというのは、雑にいうと、この世界が、多くの人の視点からなる世界(モナド)の集合体であるということである。


そしてモナドロジー的な映画には、「市民ケーン」も当てはまるだろう。市民ケーンは主人公の不在の上に、周りの主人公についての回想が加わることで、主人公をめぐる世界が拡張した。「8 1/2」も、主人公は生きていて、主人公からの視点のみ、という違いはあるが、似たようなものである。ある主人公の周りの世界が、主人公をめぐる他者によって拡張されていく。そのようにして、モナドロジー的な映画の物語は発展する。単線的な物語に囚われていた私はハッとさせられた。


映画の中で、しばしば印象的に用いられている表現に、カメラを長回しにして、視点をぐるぐると変えて、色んな人を映す、というものがある。これこそまさに、主人公をめぐる他者による、世界の拡張のシーンだと言える。大学の現代哲学の授業で、「世界は渦のようなものだと私は考える」と言った先生の言葉の意味を、私はようやく理解したかもしれない。私たちは向きを変えながら世界を見る。そして「他者」に気づく。知覚する他者は、だんだんと広がっていく。そしてそうした他者の視点が入り込むことで、世界は発展してゆく。


kichigaipiero

気狂いピエロ
監督:ジャン=リュック・ゴダール
出演:ジャン・ポール・ベルモンド アンナ・カリーナ ほか
公開年:1965


ドゥルーズは、ゴダールが色彩感覚に優れている、と言っていた。その好例として紹介されている映画が、この「気狂いピエロ」である。私はここでようやく、色彩がついた映画に辿り着き、映画における色彩の役割を考え始めることになる。少なくともゴダールの映画において、色彩が、景色からそのまま決定されるものではないことは明らかだ。というのも、あえて色彩を付けたり歪めたり、事後的に色を操作しているのである。(昔映画館で観た「イメージの本」もそうだった)


今回の作品では、序盤に、様々な色がついた部屋で(ありがちな)男女の会話が展開される中、その手前を主人公が横切る印象的なシーンがある。男女の会話を主人公の背景にすること、そしてそれを色で覆い潰すこと。明らかに、これまで映画というものが描いてきたものを、メタ的に捉えている。これは現実ではなく1つのシーンであり、1つの色彩である、というように、、、。それは、途中で挿入される絵画とも響きあっている。リアリティが消え、平面性のみが残される。


私たちは、どうドラマチックに生きようとも、もうどこかの映画の二番煎じにしかならないのではないか。そういう無言の危機感、焦燥のようなものを感じるのだ。パリを脱出して到着したトゥールーズも、まるで書き割りのような青い空なのである。だからこそ、物語は平板な背景と釣り合うように、荒唐無稽さ、滑稽さを出さなくてはならなかった。途中で、観客に直接話しかけるカットすらある。大真面目にやっても、結局新しさがないことを感じ取っていたのではないだろうか。


以前レビューを書いた女と男のいる舗道も、今振り返ってみると、一部分を省略して、リアルさを排除することで、既存の物語からの脱却をしていたように思う。それはリアルさを失わせるようであるように見えて、実はリアルさを手にするためのものなのかもしれない。そう私は思うようになった。リアルにすることが、(今となっては)すっかりリアルじゃない、そう感じることがリアルになったのが現代なのだ。


この映画自体は非常に楽しめる映画である。でも、色で塗りつぶすような、逆説的なリアリティしかないのだと、私個人は信じたくない。このあとゴダールは政治に向かったわけだけれど、政治や経済、科学の中に今描かれるべきリアリティはあって、そこに今の映画は向かうべきだと思うのだ。来月からはそうした視点で、映画を観ていければと思う。