レンサイ3:新たな出会い

映画を鑑賞することは人に会うことに似ている気がする。
自分が経験したことのない世界へと引き込んでくれる存在。これが私の映画の捉え方である。
人と会うことでもやはり自分の世界が広がる。
しかし自分と気が合う人、自分を変えてくれるような人に出会うことは頻繁に起こることではない。
映画も同じであると考えると相当な本数を鑑賞する必要がある。
正直私は鑑賞した映画の本数が少ないだけでなく、映画に関しての知識もない。
それでも私は素晴らしい映画に出会うために鑑賞を続けるし、新たな出会いを噛み締めるためにレビューを書く。

PYW

プロミシング・ヤング・ウーマン
監督:エメラルド・フェンネル
出演:キャリー・マリガン ボー・バーナム ほか
公開年:2020


復讐には価値があるのか。少なくとも私には怒りや憎しみといった行き場を失った感情を一掃する行為であるとしか思えない。自分が歩んできた人生を犠牲にして行うことでは当然ないと私は考えている。
先日社会学の講義でデュルケームの自殺論が話題に上がった。一見個人の問題に見える自殺という行為が実は社会的事実のみによって説明できるという主張だ。問題は個人ではなく社会に存在する。資本主義や社会主義とも一線を画す考えである。
デュルケームの思想に基づいて考えるなら、復讐に囚われることは個人の問題ではなく、社会の構造に問題があるとも考えられる。異常なまでに何かに囚われてしまう人は必ずしも個人だけの問題ではないのかもしれない。

そもそも社会には古くから理不尽な構造が存在する。格差社会であるからこそ貧困から抜け出すことができない。法律で禁止されていても人種差別、ステレオタイプは社会から切り離されることなく深く根付いている。
この映画は主人公が女性であり、私が持つ視点からでは十分に共感できない部分もあった。しかし社会に問題があるのではないかと思える描写は映画中に度々登場している。
「男の子なんだから〜」、「女の子なんだから〜」という言葉は頻繁に耳にしてきたことである。「家庭的な女性」という言葉は何のために存在するのか。性別の捉え方が変わりつつある現在でもステレオタイプは消えていない。


そう考えると現代でも社会には欠陥が存在すると言える。社会だけの問題でないことは明らかであるが、差別や偏見で溢れた世界で苦しむ人が存在することは十分に分かるだろう。自殺者は未婚である割合が高いことから人間関係を頼ることなく苦しみを一人で背追い込むことがさらなる苦しみを産むことが分かる。(もちろん果たすべき責任感が少ないことも関係するが)
そういう意味でも人間関係や趣味などに希望を見出せることは大切であると思えた。


映画のテーマ、主張は観客によってそれぞれ異なってはいるだろうが、この映画では社会への風刺や社会問題を観客に伝えようとする意思が明確に感じられた。シリアスなテーマであれば映画の雰囲気が暗くなる可能性がある。とはいえ観客を引き付けるためにそのテーマを軽視した内容の映画の制作は相応しくない。
この映画は重大なメッセージ、制作者側の主張を伝えることはもちろんのこと、単純な娯楽としての役割も十分に果たしている。作品を通して女性からの視点で物語は進行し、必ずしも主人公に共感できるわけではないが、年齢層や性別を選ばず楽しめる作品であることは間違いない。
私はこのような点も映画が持つ一つの魅力であると考えている。映画は「メディア」であり、情報を伝える媒体としての役割も果たしてきた。鑑賞者が学問に対して苦痛を感じることなく社会や歴史について学ぶ機会が生まれることは素晴らしいことである。


あるNPO法人に取材に行った際に聞いた言葉で思いだしたものがある。どれだけ努力をしても小さな声では政府や多くの人には届かないことが多いという内容だ。とは言え当事者でなければ届けられない声もあるし、そもそも当事者でなければ本気で活動に取り組むことができないだろう。 
そういう意味でも映画は現場のリアルをより多くの人に届けることができる可能性を秘めている。プロミシング・ヤング・ウーマンは娯楽としての側面で人々に興奮や爽快感といった感情を抱かせるとともに社会問題に対して考える機会も与えているのである。この作品が高評価であることも納得がいく。


PBF

ザ・ピーナッツバター・ファルコン
監督:タイラー・ニルソン マイク・シュワルツ
出演:シャイア・ラブーフ ザック・ゴッツァーゲン ダコタ・ジョンソンほか
公開年:2019


スタンド・バイ・ミーを鑑賞した人が感想を言い合っていたことを思い出した。私は小学生の時に鑑賞した記憶があるが、名作と呼ばれていた映画にしては印象は取るに足らないものであったことを覚えている。
スタンド・バイ・ミーでは子供の頃を思い出し、懐かしい気分に浸る人が多いと聞く。当時小学生で公園で秘密基地づくりや宝探しをしていた私にとっては無縁の感情だったのだろう。
正直今回の映画との関係性はあまりないのかもしれない。強いて言えばロードムービーで冒険の様子が描かれていること。しかし私はノスタルジックな感情を抱かずにはいられなかった。(スタンド・バイ・ミーを鑑賞した際には抱かなかったが)

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「冒険」は曖昧な言葉だ。何か新しいことに「挑戦」することに似ている。見たことのない世界で新しいことに「挑戦」したことは誰もが持つ経験のはずだ。
自分が望まない場所にとどまり続けなければならない時、現状では満足できない時に自由を求めて、人は夢を追いかけて未知の世界に一歩を踏み出す。この映画はそのような背景から始まる。


本題に戻ろう。なぜ私がノスタルジックな感情を感じたのか。それはやはり多くの人と同様に未知の世界に一歩を踏み出そうとした経験があるからだろう。一歩目を踏み出すことは簡単ではない。今までのコンフォートゾーンから抜け出し、自分が築いてきた友好関係、地位を一から再形成する必要がある。
私自身は大学一年生で、これからも様々なことに挑戦していくだろうが、大学受験という一つの区切りを終えたことに安心している節がある。課外活動を中心として様々なことに挑戦し、新しい発見、新しい環境に身をおこうと努力した高校生時代が思い出されるのだ。
そう考えるとスタンド・バイ・ミーを鑑賞して少年少女時代の思い出を懐かしく思うことも納得できる。自分が様々な経験を積んだから、または単に時間が経ったからこそ抱く感情もあるのだ。そう考えると場所や時間を選ばずに楽しめる作品の製作は難しい。


その他にもこの作品を鑑賞して感じたことがある。登場人物への憧れだ。言葉で表現するのは難しいが、この作品は人の温かさで溢れている。先ほど「冒険」について書いたが、私は自身の経験と重ね合わせてしまった。
挑戦を応援してくれる人は多くいるように見えるが、心から応援してくれるのは実際には家族や一部の友人など限られている。実現不可能に思えることへの挑戦、周囲と異なる進路の選択の際には嘲笑されることさえある。周囲の人々に合わせて生きることが最も簡単な生き方なのかもしれない。
しかしこの映画は前向きなのだ。夢を追う人に否定的な言葉をかけることなく、ポジティブで他人のことを考えた行動をする。自分が何かに挑戦した経験があるからこそ、否定的な言葉をかけられたことがあるからこそ、自分の経験と重ね合わせてしまう。登場人物に感情移入して幸せな気分に浸っている自分がいる。


調べたらこの作品も評価が高かった。ヒューマンドラマを楽しむことができるし、アメリカの風景を楽しむことだってできる。しかし仮に自分が小学生であるとすると、映画の捉え方は大学生の自分のものとは大きく異なるだろう。もちろん同じ年代の人であっても映画に対する感想、視点は異なる。自由な捉え方、鑑賞方法があるからこそ映画は素晴らしいのだと私は考えている。
自分にとって最高の作品に出会いたいという思いから、今まで私は既に鑑賞した作品を複数回鑑賞するという行動を取らなかった。でも今まで鑑賞した作品の中に自分にとって最高の一作が眠っているのかもしれない、ザ・ピーナッツバター・ファルコンを鑑賞してふと思った。場所や時間によって捉え方が異なるからこそ映画を複数回鑑賞する価値があるのだと再認識できた。


Field

フィールド・オブ・ドリームス
監督:フィル・アルデン・ロビンソン
出演:ケヴィン・コスナー エイミー・マディガンほか
公開年:1989


私はメジャーリーグの試合を観戦することがある。昨年の8月、メジャーリーグの公式戦が「フィールド・オブ・ドリームス」の舞台であるアイオワ州ダイアーズビルで開催された。トウモロコシ畑に設置された野球場。私が知る限りでは現実とかけ離れた光景である。野球好きとして不思議な魅力に引き込まれたから。私がこの映画を鑑賞しようと考えた動機である。
多様なスポーツの流行で野球人気は落ちているのが現状である。それは日本ではもちろん、アメリカでも身体的に恵まれた人材がアメリカン・フットボールに流れているという。この映画は公開年が1989年とあって、ある意味野球が現在よりも栄えていた時代の話である。

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野球がテーマであるのはこの映画の大きな特徴だ。私も小学生の頃はプロ野球選手になりたい、甲子園に出場したいと考えていた。しかしその夢はすぐに実現不可能なものだと分かる。体格差、運動能力といった自分の努力ではどうしようもない現実がある。野球を続けた人であっても大半がプロ野球や甲子園と行った夢の舞台に立つことはできない。順調なサクセスストーリーではなく挫折を経験する人が多いはずだ。
私を含め趣味として野球を観戦する、プレーする人は多い。現実を目の前にして他の道を選ぶことはごく普通の決断である。それでも実現不可能に見える夢を追うことは憧れでもある。自分の理想と現実の差に悩む人、過去に夢を追った経験がある人。そのような人に贈る作品であると思う。


人間は若い頃は情熱に溢れていると発言する人は多い。新しいことを経験できるし、社会人でない場合は失敗しても大目に見てくれることもあるだろう。私も大学一年生として期待感を抱いて大学に入学したし、現在でも日々が新たな経験、人々との出会いであると思っている。
しかしある段階からは社会において、自分の行動に対する責任を負わなければならなくなる。大学卒業後である人もいれば、結婚して家庭を持つようになってからである人もいるだろう。生活していくために自分の希望と異なる仕事を全うする必要がある。自分の行動に制約がかかるのだ。
だからと言って人々が持つ情熱が消えてしまうことがあるだろうか。実際には経験していないため、私の口からは確かなことを語ることができないが、日々の生活に満足していても内心では物足りなさ、または別の夢を抱えている人は多く存在する気がする。


この映画は自分の夢を実現しようとする人、自分の心の声に従おうとしている人を表現していることは間違いない。スティーブ・ジョブズの言葉で「And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.」というものがある。
文脈的には他人の考えに惑わされることなく自分の中の声に従うべきだ、自分が成し遂げたいことは既に自分が知っているという意味だ。スティーブ・ジョブズは自分の心に従って成功を収めた人物の代表例と評しても良いだろう。スティーブ・ジョブズの発言であるから説得力が増しているのではないかという主張は否定できないが、周りに流されずに自分の望むことを成し遂げることは理想であるし、自分の人生を生きるという意味でも素晴らしい選択である。


とは言え私たちには日々の生活がある。超えられない現実の壁もある。夢を追うことは簡単ではないし、満足感があったとしても必ずしも正しい選択であるとは言い切れない。それならばせめて映画の世界だけでもいいから夢を追う人を見たい。
この映画はファンタジーであるから現実には起こり得ない出来事が発生する。でもそれでもいい。現実的でない夢を追う人を見ること、または一人の野球ファンとしてトウモロコシ畑にある夢で溢れた野球場を見るだけでも満足なのだ。


mid90s

mid90s ミッドナインティーズ
監督:ジョナ・ヒル
出演:サニー・スリッチ キャサリン・ウォーターストーンほか
公開年:2018


大学一年生の私が語れることではないが、人生には波がある。常に頑張り続けることができる人は本当にいるのだろうか。例えば私は中高一貫校に通っていたが努力と言える努力をしたのは大学受験が目前に迫った高校三年生の一年間だけであろう。実際に六年間を通して努力を続けられる人は案外少ない気がする。
中高生の時に運動部に所属していた私だったが、それほどスポーツに打ち込むことができたわけではない。では高校三年生時の一年間を除いた五年間は無駄だったのか。私は意味があったと思っている。

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成人した人が、あるいは年老いた人が過去の自分を嘆く姿はよく目にする。(小説や映画で目にするだけのような気もするが)もう少し勉強しておくべきだった、タバコを吸わなければよかったなど。私も積極的に課外活動に参加するべきだったと後悔している。
意味のある行動、将来に繋がる行動がこの映画で描かれているとは正直思えない。酒に溺れる、不良と共に行動するなど一見すると無駄な行動で溢れた作品である。でもそれでも良いのかもしれない。人は周りから注意を受けても本当の意図を汲み取ることはできない。自分で気づくことでしか成長できないのかもしれないから。
具体的な目標が存在しない際にこのような行動をとることは普通であると思う。何らかのレースにおいて常に全力で走り続けることができないのと同じで時には休息、つまり意味のない行動で溢れたティーンエイジャーである期間が必要なのかもしれない。意味がないようで意味があることは案外多いのだろう。


私が経験したのは中だるみと言われる現象である。大学受験まで比較的時間がある中で将来のことを一切考えずに過ごしていた時期。形は違っても多くの人が経験することであろう。この映画は1990年代のアメリカで、少年が成長していく姿を描いている。主人公は思春期と言える年齢であるか微妙であるが、少なくとも私は少年の思いを感じることができた。
アメリカということもあって私が過ごした環境とはまるで違う。それでも自分の世界から、さらに言うと保護者の保護下から逃れたいと思うのだ。保護者は子供よりも社会経験があるし、より長い年数を生きているから発言にはある程度根拠を持っているだろう。保護者の提案に従うことが確実であり、将来に繋がる選択ができる確率が高まるだろう。
しかし将来を気にすることがないからこそ、自由に憧れを抱き、向こう見ずな行動をするのがティーンエイジャーだと思う。そのような反抗期では家庭での過ごし方と家庭外での過ごし方が変わってくる。


中高生はある程度の自由を得られる反面、大人としては扱ってくれない時期である。友達同士で遊びに出かけることが増えるように、徐々に親との関係は薄れ、自由に行動できるようになる。人間関係を自分から構成していくからこそ親に反抗的な態度をとるのかもしれないし、行動の自由がある程度保証されている友達との付き合いの方が大切に思えるのかもしれない。
ここで思い出したのが、先日細田守監督が大学にいらっしゃった際に述べていた、アニメでは登場人物が家族から自立して成長する姿が描かれることが多いと言う事実だ。もちろんこの映画はアニメではないが、主人公が自分の憧れに向けて成長しようとする姿は共通して描かれている。
細田守監督は同時に、家族をテーマにしたアニメ映画は少ないと述べていた。この映画では家族との繋がりも描かれているが、私は一つ疑問に思った。本当に自分のことを理解してくれる友人は家族に限りなく近いのではないか、と。


家族が自分のことを理解し、応援してくれることは当たり前であると思っていたところが正直ある。しかし様々な家庭が存在する中で全ての家族で成り立っていると言えるのだろうか。家庭内暴力、あるいは孤児として、周りに家族としての理解者が存在しない人もいるだろう。
家族だから与えられること、友人であるからこそ与えられることがあることは明らかであるが、私はこの映画を鑑賞して友人が第二の家族であるように思えた。もし家族を失ったら頼るのは友人であるかもしれないし、アドバイスを求めるにせよ友人に頼る機会は非常に多い。
同時に考えた。この感覚は私が友人を信頼しているということでもあるが、家族の中での自分と友人との間での自分が存在するからかもしれない。このような二面性を持つことができるのも自由でありながら大人としては認められないティーンエイジャーであるから。何年後かに再鑑賞すると異なる解釈ができるかもしれない。