レンサイその2:私は何者であろうか

私は映画に関してまったくの素人である。そんな私がなぜこういったレビューを書くに至ったか。
現在、大学生というほか取り立てて特徴もない私は世間から見ればただの高卒である。何も資格を持たない私は自分が代替不可能な人間であると主張する根拠はない。
では、私は何者であろうか。映画の裏に込められた多数の人々の思想、また、その表現。そこから私が何を学び、感じ取ったかを文章として残すことで自分というものが何なのかを考える足掛かりにしたい。
そうした一人の人間の思案の足跡をここに書き記すことにする。

コーダ

Coda あいのうた
監督:シアン・ヘダー
出演:エミリア・ジョーンズ フェルディア・ウォルシュ=ヒーロー ほか
公開年:2022


静寂は時に壮大な音よりも我々を圧倒するものだ。ということが今作を見た私の率直な意見である。現代の社会は音にあふれている。普段から我々は音の暴力とでもいうような環境にさらされているのである。
そんな現代において濃密な静寂を味わうことができるのが今作である。また、それによってより一層映画館での大迫力なサウンドが生きるというものである。


私が人生で静寂にここまでの感動を受けたのはクリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』以来である。不幸なことに私は『インターステラー』を配信で見てしまった。大迫力な静寂という貴重な体験を一度みすみす失っていたのである。
ただ、私が幸運だったのは『インターステラー』よりも音に重きを置いた今作を映画館で見ることができたことである。この作品が扱っている題材からも明らかなように音が今作の魅力のかなりの領域を占めていて、実際、私が感じ取れただけでも音へのこだわりが多数あった。
コンサートで音がじわじわとフェードアウトしていく演出は作品への没入感を高め、一番の見せ場で完全な静寂が訪れる。音のない音を出しているかのような迫力。また、そこから容易に想像される登場人物の複雑な心境。あの静寂はこちらが思案を巡らせれば巡らせるほどより深く、重厚なものになってゆく。


さらにサウンド面での良い点としては聴覚障害を持った者の生活音だけ不自然なほど大きく設定されている点である。私の人生で聴覚障害者と関わった機会が少ないためその実情は計り知れないが、素人目にこの描写はすごくリアリティがあるのではないかと感じた。
実際ノイズキャンセリングのイヤフォンをしているときに人間の声はいつも以上に大きくなるものだ。そういったところからも聞こえていないことが伝わってくる。ただの家族団らんに込められた細部へのこだわりを感じ取ることができる。


また、家族との関わりを描いた作品という点でも優れていた。家族で食卓を囲むときに一人で音楽を聴こうとする、現代の若者を象徴するルビーに対して、「みんなで楽しめるほうがいい」という母親の発言は聴覚障害への配慮を求めている、というよりは一般的な家族の会話であるように思えた。
普段からYouTubeなどの動画配信サービスや、音楽サブスクリプションサービスに汚染された生活を送ってはいないだろうか。テレビが主要なコンテンツであった時代には食卓でコンテンツは容易に共有されていた。しかし、一人一台のデバイスが普及した現代では、食卓内のコンテンツの分割が進められた。
結果として家族間の関わりが薄れがちである。そういった現代の家族の形を指摘した言葉だったのではないのだろうか。そういう意味でも今作を見ず知らずの人ともコンテンツを共有する場である映画館で見れたことは幸運だった。今作を家族がいる食卓で、一人配信で見ることほど皮肉なことはないだろう。


Mr.Childrenの楽曲『擬態』には「障害を持つ者はそうでない物より不自由だって誰が決めんの」という一節がある。それまでの外界への一種の諦めの観念を捨て、ルビーへの依存から抜け出して外界へと関わろうと進みだした一家の姿はまさにこの一節を体現しているのではないか。
障害を扱った作品は、ともすれば障害者への過度な同情を誘い逆に特別扱いというある種の差別を生むことにつながってしまう。そういった点でのバランスの良さも素晴らしかった。今作は、様々な観点から評価することができる、多面的な作品なのではないだろうか。


時かけ

時をかける少女
監督:細田守
出演:仲里依紗 石田卓也 ほか
公開年:2006


「永遠の刹那」とでも表現したくなるような映画であった。
永遠と刹那は対立する概念として存在するものだが、それを見事に両立させたのが本作品ではないか。そう感じた一番の要因はタイムリープというものの性質による。


今回、初めて映画におけるタイムリープの意義について考えたのだが、本作品においてその大部分は日常に奥行きを作るためではないか、と私は考える。
普通の日常を送っていたはずの主人公がある出来事を境にタイムリープできるようになる。それにより主人公は回数制限はあるものの人生をやり直すことができるようになる。
つまり、人生のどの瞬間も何度も永遠にやり直せるようになったわけである。これにより、刹那的な出来事さえも永遠の出来事とすることができる。


ここで一度私の考える刹那についてはっきりさせておこう。私はここでは厳密な意味の刹那ではなく、短く、鮮やかで、儚い。そういった高校生活のことを刹那と呼びたいと思う。
高校生であったことのある者の大半は高校生活を美化して覚えているのではないだろうか。嫌なこともたくさんあったはずなのにビビッドに思い出され懐古される先としての高校生活。その刹那をタイムリープするということが本作品に心を動かされる要因であるように思われる。


また、タイムリープをする際の演出も素晴らしい。デジタルで表現される時間が連続的に一本の筋となっていて、そこにはアナログの特徴を見ることができる。「永遠と刹那」、「デジタルとアナログ」、対立する2つの要素がひとまとまりに表現される。それが本作品を公開から15年以上たった今見ても錆びない魅力である、と考える。
真琴が千昭に向かって「未来から来た」といい、二人の関係が逆転した瞬間、『セリーヌとジュリーは船で行く』のラストシーンを想起した。二人のどちらが未来人であるかはどうでもいいのである。ループの一部を切り取った場合、登場人物の特定の一人に焦点が当てられがちである。しかし、その見え方は一面的でしかなく、ループというものの本質を考えると映画の登場人物に与えられた役割というものは簡単に変わりうる。
一つの見方にとらわれている観客の視点をひっくり返すような感覚。私がいかにステレオタイプに縛られがちであるか、ということを考えずにはいられない。


思いがけず青春のひと時を描いた映画から自分の未熟さを痛感させられた。タイムリープへの私の意見は確かに深読みのし過ぎで映画自体の本質を突いたことではないかもしれない。
だが、それでいいのである。作者も意図してないようなところから人生の学びを得られ、人生が豊かになることが芸術鑑賞の醍醐味の一つといっていい。
自分がいかに偏見にまみれた、未熟な存在であるか、ということを学べたことを今回の収穫としよう。


ニューシネマ

ニュー・シネマ・パラダイス
監督:ジュゼッペ・ペルナトーレ
出演:フィリップ・ノワレ ジャック・ペラン ほか
公開年:1989


この作品を知ったのは、高校一年の夏であった。
当時の国語の先生に勧められて気にはなっていたものの、なぜか今になるまで見てこなかった。今となっては当時見なかったことは、英断であったように思う。


その理由の一つは、この作品の本筋が一人の少年の成長物語であるからである。作中で明示されるようにトトは生涯、恋愛(特にキス)に縛られて生きている。
「雀百まで踊り忘れず」ということわざがあるが、小さいころの原体験が彼の人生には常について回っている。また、青年期に出会った恋人も生涯忘れられずに過ごしている。
まだ18年の人生ではあるがこういった体験は高校生までのうちに経験されるものだと考える。少なくとも私は、当時見ていたら主人公の人生に対する共感は薄かっただろう。その時期を超えたからこそ自分の物語と重ねて読み取ることができた。この物語を旬の時期に見られて非常に良かった。


二つ目の理由としては、自分の映画に対する解像度が高校一年当時と比べて上がっているからである。映画というものの魅力に気づき始めたのは、新型コロナウイルスの感染が拡大し、学校が休校になった高校二年の春であった。私の人生で、あの時期ほどアイデンティティ・クライシスに陥りそうになったことはなかった。学校という日常が崩れ落ち、外出自粛が呼びかけられ、家で何もすることのない自分に正面から向き合わなくてはならなかった。当初は狂ったようにYouTubeを見て時間をつぶした。
しかし、その行為が自分の中身のなさ、つまり代替可能性をより際立たせてゆく。何か能動的な行動をしなくてはダメになると思った。そこで選んだのは映画であった。YouTubeなどの比較的尺の短い動画に比べて、映画は2時間が大体の相場で主体的に見ようと思わない限り見る機会がなかなかないと考えたからである。
また、様々な人間の思考が混じりあってできている映画から学べることは多いだろうと考えたのである。それが、娯楽としての映画との本当の出会いの瞬間だったように思う。こういった体験が今作を見るのにあたってかなり重要な役割を果たしてくれた。


作中でのアルフレードの「技術が進歩するのが遅すぎた」という言葉にはなかなか考えさせられるものがあった。
こんなにもめまぐるしく進歩する現代においても(もしかしたらその恐ろしいほどの進歩の速度のために)技術の不足に直面し、事故が起こることは往々にして存在する。しかしながら、人類はそれを当然のこととして受け入れず、技術の不足を嘆く。現代において技術が不足するときは大抵生活することに必要でないものについてだあるが、それだからと言って、その技術を使うのをやめるのではなく、技術を進歩させるほうに動く。これは、いつの時代にも共通の感情であり、それゆえに人間は進歩をし続けられたのだろう、と感じた。


私が映画鑑賞を始めた時のことや、自分の高校生活などを思い出して、自分の映画を見る意義を改めて実感できたことがこの作品を大学生となった今見たことの一番の収穫であった。
今回は、自分だけはなく人類に共通するであろう感情について考えることができた。ミクロとマクロは関連している。あまりにも自分が何者であるかを追い求めすぎて自分本位になってもよくない。たまには大きな視点で物事を語ることで自分という存在の意義を考える足がかりにしたい。


スタンドバイミー

スタンド・バイ・ミー
監督:ロブ・ライナー
出演:ウィル・ウィートン リヴァー・フェニックス ほか
公開年:1986


今まで見た映画の中で一番好きな映画かもしれない。映画を見るときにあまり頭を働かせたくないのでメモなど生まれてこの方つけたことがなかったが、初めて映画を見ながらメモをつけてしまうくらいの衝動である。自然と筆が進んだのである。実際にメモをしたのはスマホにだが。
なぜ私は今までこの作品を見てこなかったのだろうか。現状、わが人生における最大の後悔である。


私が一番素晴らしいと思ったのは、喜劇と悲劇のバランスの良さである。映画というものはあくまでエンターテインメントであることを再認識させられた。
私は映画を教養を身に着けるために見ている側面があるので、頭を使って観賞しようとして、一度の映画鑑賞でかなり体力を使ってしまう。それは本当の意味で映画を楽しめていたのだろうか。そう考えさせられた。
様々なエンターテインメントの形があり、人の数だけ楽しみ方があることは確かだが、私に一番合っていた楽しみ方は、今作が提示してくれていた気がした。それも30年以上も前に、だ。


少年たちが繰り広げる喜劇の中に、彼らの悲劇的なバックグラウンドが見え隠れする。そして彼らの考えることは、私のように学校教育に染まり切ってしまった人間には出すことのできない深みのようなものがある。彼らのバックグラウンドはその深みを強調しながら、また、自分にもこういう側面が少なくはあるがあるなという共感を呼び起こす。
最近、ブレイディみかこさんの『僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー2』を読んだ。そこで、「執筆の役にもたつんじゃないかと思って、スピーチ文の構成に関するプリントをコピーさせてもらったのは言うまでもない」という一節がある。
もちろんこの一節は本題とは全く関係のないものではあるが、著者の何からでも学んでいこうとする姿勢が感じ取れる。売れっ子作家でもやっていることをただの大学生ができていなかったのではないかとハッとさせられた。作中の子供たちは私よりも濃密な人生経験を積んでいるのではないか。
年下からでも、そこから貪欲に学んでいく姿勢を身につけないといけないとしみじみ痛感させられた。


また作中、聖書からの引用でこのような言葉がある。「生きるとは死に向かうことなり」
この言葉から私はハイデガーが人間を死への存在と形容していたことを思い出した。世人だのなんだのあったな~と高校時代の公民の淡い記憶をたどってみるが私は正しい理解をできていないだろうからここでハイデガーについて語ることは控えておこう。
代わりに先日、美術館に行った際のエピソードを補填しておこう。サルヴァトール・ローザの自画像の解説にこう書いてあった。ローマで死と関連する糸杉の髪飾りをして、生あるものは等しく死を迎える象徴の髑髏に「やがて いずこへ 見よ」とギリシャ語で書いている(細かい記述まで覚えていないので引用は正しくできていないかもしれない)。
やはりここでも人間は死への存在だったのだ。我々は普段、死を意識しながら生きていない。しかし、必ず死ぬ。それに正面から向き合うことが、教養を身に着ける、ひいては生きていくということなのではないだろうか。


私は高所恐怖症である。その理由をよく死を人一倍恐れているということにして、ハイデガーの薄い理解と結び付けて正当化してきた。
こういった屁理屈は、周りから変わり者だと思われる所以だろう。ただ、こういった人とは違った一面を持っていることは自分のアイデンティティにもつながる。自分がこういった屁理屈で周りから敬遠されるという事実がそのまま自分の存在証明となる。
作中、クリスがゴーディに向かって「人はみな変わり者さ」と言う。金子みすゞの詩で表現されているように、それぞれ人間は違って、それこそが人のアイデンティティを形成するのだろう。
話がとっ散らかってしまったが、この作品は私にとってのベストに名を連ねるであろうしこの先何度も見返すだろう。以上の文章は、大学生という今の自分が初めて見て考えた、まさに足跡なのである。


愛がなんだ

愛がなんだ
監督:今泉力哉
出演:岸井ゆきの 成田凌 ほか
公開年:2018


ファンタジーを経由して現実が彩られるような感覚がする映画であった。
作中に出てくるような人間関係を経験したことはないのだが、その節々に自分と重ねられる。自分にも少なからずこういうところあるよなという一種の共感を引き起こさせる。
また、そこから現実を見返して、退屈だった毎日がこんなにも一瞬で鮮やかになることがあるのか、と少し希望が持てたような気がする。鮮やかとはいっても主人公の恋は決して成就はしないのだが。


主人公が、愛に取りつかれたかのようにどんどん入れ込んでいく様子は狂気じみている。ただ、その始まりは狂気とは正反対の普通で些細な出来事であった。
私は、これこそが恋愛の始まりの正しい描き方なのではないかと感じた。巷にあふれているような劇的な出会いを果たして恋に落ちてゆくことなんて稀であるだけでなく、それは現実に対してのリスペクトが足りていないのではないか。
先日の講義で細田守監督が「現実の価値を映画を通すことで改めたい」という趣旨の話をしていた。ファンタジーを想像する人ほど現実に期待していて、現実を楽しくしたいということを考えていることが非常に興味深かった。
思うに、日常のありふれた一コマから狂気じみていて、何か美しさを感じさせる恋愛が始まるほうがよっぽど現実が楽しく思えるだろうし、何よりリアリティがある。


そもそも、人を好きになるという行為は非常に難解だ。恋人をなぜ好きになったか、どこが好きなのかを優しいという言葉に逃げずに説明できる人間がどのくらいいるだろうか。
匂いで自分との免疫の相性を遺伝子の側面から判断していることを示す実験もあるほどだが、要するにそんな直感的なものである。それに巻き込まれ、展開される関係性のループも美しく感じた。登場人物の中で片思いが連鎖していて、誰もその恋が叶うことはない。全員そのことに気付いているがどうしても諦めきれずに執着してしまう。
作中でかなり印象的に用いられる「愛がなんだ」。彼女自身もなぜそんなにも執着するか分かっておらず、理性と本能の狭間で揺れているような不安定な言動。でも、それこそが等身大の恋愛を描くことなのであろう。


しかし、この作品はリアリティだけではない。ところどとろに子供時代のテルコとの会話がさも現実かのように差し込まれる。まさにシュールレアリスム、超現実的な描写である。
さらに、この作品に引き込まれる要素として対比の美しさがある。仲原とテルコ。同じ狂気にとらわれていた人間だが、仲原の決断によって彼らの結末は真逆へと進んでゆく。「幸せになりたいっすね」と言って別れを選んだ仲原、幸せなどいらないというかのように「愛がなんだ」と言って執着を捨てられなかったテルコ。
現実と超現実、幸せと愛のような対比が鮮やかに描かれている。


結局、愛とは何なのであろうか。そんな答えのない問いの答えを探し続けるような感覚に襲われた。
人は幸せになるために恋愛をするのだろうか。それとも幸せになるためには仲原のように恋愛を一度諦めなければならないのだろうか。では、人は何のために恋愛をするのだろうか、ひいては何のために生きているのだろうか。
私の中でその答えは未だ出ないままであるが、それは私が追い求める自己の存在意義につながる問題である。どうすればこの問いに自分なりの答えが出せるようになるか、今後の人生における最大の問題となるだろう。


紙の月

紙の月
監督:早船歌江子
出演:宮沢りえ 池松壮亮 ほか
公開年:2014


先日、授業で『文化人類学の思考法』を読んで、ゲルマン語系の語源をたどるとGiftには毒という意味があることを知った。これは、まさにこの作品における贈り物の役割を暗示している。


主人公と夫とのすれ違いや、不倫相手の若者との関係は贈り物が起点となって変化する。時計を贈りあい、夫婦間のすれ違いが拡大したり、職場で横領した金を使って若者に大量に貢いで関係が変化したり、この作品のカギとなるシーンは贈り物に起因する。
贈り物の毒はじわじわと効いてくる。普段の生活ではあらわにならない価値観の相違が現れたり、相手の価値観を壊したりしてしまう。これが蓄積すると贈り手と受け手との関係にひびが入って、気付いたころには修復不可能なほどになってしまう。
贈り物は特定の人と長く付き合うためには必須といってもいいものだ。うまく用いることで良好な関係を築けることもある。そういう意味で、その効用は薬と同様で、用法用量次第で毒にも薬にもなるのだ。


抽象的で、いまいち何のことなのかわからなかった紙の月というタイトルが、最後の独白のシーンにおいて回収される。夜が明けかけている中、三日月を指で消すことで、夢か現かわからない幻想的な空気を醸し出し、現実は偽物でしかないと悟らせる演出が素晴らしい。
紙幣の価値になぞらえて現実世界を捉えなおさせる。今、本物だと信じてやまないあなたの人生は本物なのだろうか。『マトリックス』的な世界観であったり、いつも無意識のうちに何かに縛られてきた人生であったり、それは本当の意味であなたの人生を生きていると言えるだろうか。
主人公はすべてが偽物だったんだと悟り、すべてを壊すことを選択する。自由に飢えていたのである。


ジャン=ポール・サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と言った。自由にはそれなりの責任が伴う。しかし、今作の主人公は結局何の責任も果たすことなく、自由であり続けようとした。
主人公の行動原理は子供であったころから変わっていない。非常に子供っぽい思考のまま特に障害もなく大人になってしまったのであろう。その辺りがこの作品を見ている間ずっと気になっていた。良いと思ったことをしたいから父親の金を盗むし、自由になりたいから横領もする。
その行動原理の幼稚さにまったく感情移入ができなかったというのが本音である。自由になりたいのなら責任を果たすべきだし、何の制裁も受けずに海外に高飛びできてしまうのも現実感がない。主人公の「行くべきところ」はそこではないだろう。結局は自己満で暴れている人の話ではないのか。
自由とはそんなに美しいものでも憧れるものでもない。我々はもとより自由の刑に処せられているのだから。


私は小さいころから自由にさせてもらってきた(もしくはそう思い込んでいる)ような、恵まれた環境で生きてきたことも関係あるだろうが、自由というものを美化して描くことはあまり好きではない。
自由とは選択の余地があることだ。しかし、それは裏返せば多数の選択肢から一つを選択しなくてはならないということだ。選択に対する責任は重い。それには辛く、苦しい経験が伴うものだ。その状況は果たして、自由を得る前に思い描いていた自由の姿だろうか。そういった理想と現実の乖離が少なく、理想ばかりが達成されるのは物語としてどうなのだろうか。
また、主人公はいつも同じホテルで豪遊していた。選択の余地を放棄した豪遊を自由と呼べるのだろうか。紙幣の奴隷になっているだけではないだろうか。
贈り物というモチーフは秀逸で、月が消える演出もよかったが物語の本筋にあまり共感できなかった。もう少し、等身大の自由を描いて欲しかった。


空に住む

空に住む
監督:青山真治
出演:多部未華子 岸井ゆきの ほか
公開年:2020


先日の映画論の授業で、初期映画におけるモンタージュの役割について教わって以来、映画を見ることがさらに楽しくなった。映画を見る際に注目する観点が増えたからである。
現代の映画では当たり前に使われている技法で、あまりにも自然なため、今まで見えてこなかった映画の深淵に少し触れられた気がした。


初めて主人公が高層マンションに訪れた時、そこからの景色のショットから足元の猫のショットがつなげられる。そびえ立つビルを見下ろす異質な光景から急に人になつく猫が映されることで、作品内の世界がぎゅっと絞られる感覚がする。
日常と非日常、果てしないものと身近なもの。作中では「二項対立って陳腐すぎる」と一蹴されてしまうが、比較対象があってこそ輝くものだってある。映画の表現を感じ取ろうとする我々の美的感覚に関しても、もとを正せば比較によって形成されている。ある時見て、美しいと感じたものが、日を置いてみるとそう感じなくなることがある。
それは、自分の中の美的センスが他の作品に触れることでアップデートされたからに他ならない。突き詰めれば、どちらのほうがより美しいかという比較に過ぎない。


その作品の特徴は反復にある。生物の死というモチーフが繰り返し何度も描かれる。一つのシーンの中でも死が繰り返し描かれている。作中、主人公がうつ伏せで寝ている姿が映される。腕の配置が死んでいる人のようにしか見えなかった。観客の無意識のうちに死を忍ばせたのち、次のショットでは猫が死んでいる。まるで主人公のその姿が猫の死を象徴していたかのように。
また、セリフの反復も意識的に行われているように感じた。主人公は、序盤と終盤で二回、ふわふわしてるのにどんどん進んでいく、すなわち雲のようだと形容される。別の人から別のシーンで同じように表現され、主人公の人間性が強く印象付けられる。
何度も繰り返されることでモチーフの印象が強まり、伝えたいことがより強く表現される。


ただ、細部には気になる点もあった。主人公が熱を出したときに一人で原稿を読んでいるときにマスクをしていたのはなぜだったのだろう。叔母が訪れた際にマスクをつけるならわかるのだが、一人なのであれば息苦しくなるだけで意味がないのではないか。
一人一人が交わらない平行線だったとして、宇宙をずっと行けば交わるという話が未だに飲み込めない。人間関係の話の比喩として、人は一人ではないことを表現するための引き合いに出していることはわかるのだが、平行線の定義から行くと、互いに平行だったらどこまで行っても誰とも交わらない。つまり言いたいことと真逆のことになってしまわないか。
これは、さらに細かいのだが、登場人物のスマホにおしなべて同じグリップが使われていた。あれは、スポンサーの関係であのようになったのだろうか。私の周りにあのグリップを使っている人があまりいないため、少し気になってしまった。


時戸が作中、人間関係は死ぬまで続く、終われると思うなんて甘いという趣旨の話を繰り返しする。私の経験上、もう連絡の取れなくなった友人もいるため、必ずしもそうではないと思うが、この言葉からアイデンティティをめぐる問いを考えることができる。
前回のレビューでも引用した『文化人類学の思考法』では、「本当の私」が見つからないという悩みの源は、相互承認が達成されないことにある、という話がなされる。その根拠としてあげられるのは、アリストテレスが言うように、人間がポリス的動物であることだ。相手から承認されていればわざわざ自分が何者かを考えることはないということである。このことから、自己存在の問題は相互承認の問題に帰着させることができそうである。
では、私は適切な承認が得られていないのだろうか。恵まれたことに私には、多いとは言えないが、自分の良いところも悪いところも認めてくれる(と一方的に思っているだけかもしれないが)友人がいる。親や兄弟からも認められていないわけではない。そしてこれらの人間関係は死ぬまで続く、と語られる。そうなったら死ぬまで私のアイデンティティは確立されたままであるのか。また、私は何を不安に思ってアイデンティティについて考えていたのか。青年期に特有の自己存在についての問いはどこから湧いてきたのだろうか。
それは、社会からの承認不足によるものだろう。大学受験を通して一度は合格という形で社会に認められたものの、そもそも普通に卒業できるのだろうか。手に職をつけられるのだろうか。資格を持たない人間を社会は認めてくれるのか。という将来への不安はいつになっても拭えない。このアイデンティティの問題は漠然とした将来への不安や、自分への自信のなさに起因するものだ。自分のことに自信がなくても私を認めてくれる人を信じて、頼って生きて行こうと思う。


流浪の月

流浪の月
監督:李相日
出演:広瀬すず 松坂桃李 ほか
公開年:2022


もう父権主義的な恋愛を映画で扱うことは難しいのかもしれない。ジェンダー平等が叫ばれる昨今、少なくとも映画を見ることを趣味にしているような文化的な人々には、そのような恋愛を見るのは苦痛だろうし、それを演じる俳優のイメージダウンにもつながりかねない。
私が最近見た映画では、『紙の月』でも父権主義的な夫が登場し、そこから生まれるすれ違いが物語を動かすきっかけとなっていたが、個人的にはそういう男性を見るのは苦痛でしょうがないので、もう扱うのはやめて欲しいというのがこの作品を見た率直な感想である。
私は、前時代的な恋愛観を持つ男性が当たり前のように映画に出てくると違和感で気持ち悪くなってしまい、まだ世間の男性はこういった考えを持つ人が多いのかなと思って日本の未来を憂いてしまう。
今作は原作の小説があるため、それを一概に映画のせいにすることはできないし、規制を入れすぎることで文化が衰退することもよくは思わない。しかし、今作に関してはそういう役を登場させる意味は薄かったのではないかと感じた。


束縛の激しい父権主義的な男性の今作での存在意義は、主人公のアセクシャル的な側面を強調するためであろうか。実際に主人公がアセクシャルであるかは明らかにされていないが、少なくとも好きではない人と関係を持つことには興味がなかったようだ(普通の人の感覚からしたら当たり前だが)。
その特徴を示唆するために強制的に関係を持とうとする人物が必要だったのだろう。実際、最初のシーンから主人公は全く乗り気でなかった。それを目線やしぐさで表現できる俳優は素晴らしいのだが、果たして主人公の特徴を表現するには、その方法しかなかったのだろうか。
恋愛には表現されるべきもっと違う側面があると思うし、今作のように、父権主義への嫌悪感を表現として消費することは文化的にもあまり健全ではないだろう。そういった表現はダサいものだとして自然淘汰されないのは不思議である。


「人は見たいようにしか見てくれない」
このセリフにはドキッとさせられた。私はこうやって映画を見て、何様だよと思われる立場からレビューを書いている。そんな私は流れている映像を見たいようにしか見ていないのだ。それは画面の向こうにいる人々の思った通りの解釈かもしれないし、まったく違う解釈かもしれない。
私は映画について論じるにはものを知らなさすぎる。教養も足りない。そんな無知な私でも読み取れるような意図を込めてくれることもあれば、無知ながらに考えて汲み取る努力をしながら見なければならないこともある。
そうやって映画について考える時間すべてが、文化的に豊かな時間であり、人生において一番大切な時間である。物事の真意を知ることも大事だが、私は今後も映像を見たいように見て、考えたいように考える。結局私の映画鑑賞とはそういった自己中心的な営みなのであろう。


後のシーンを予感させるような音楽の使い方はよかった。あいみょんの『マリーゴールド』の「抱きしめて離さない」の部分だけカラオケの扉を開けることで聞こえてくるのは、文章で詩の一節を引用するかのような表現で面白いなと思った。
明らかにその歌詞は主人公が巻き込まれている彼氏からの束縛を象徴していて、物語としての機能もはっきりしている上に、現代っぽい音楽のチョイスでカラオケで歌う歌としても自然になっているのが良い。しかし、それは逆にこれから生まれてくる人たちにはリアルに感じられないということでもある。
今から50年前の名作映画を見ても未だにリアリティがある。では、この作品を50年後に見たらどうだろうか。同じような感情に浸れるとは思えない。というかそもそも後世に残すことを念頭に置かれていない気すらする。斜に構えた見方から言うと、本屋大賞を受賞した作品を、今流行りの俳優を大量に起用して作った映画と言えるかもしれない
作中で使われた楽曲は、その他にもクレジットを見た感じだと4曲くらいあったのだが、『ヒロイン育成計画』くらいしか劇中に登場したのがわからなくて、クレジットで流れてきた『アポロ』(流石にポルノグラフィティのだと思う)がどこで流れたのかがわからなくて、好きな曲だけに少し悲しかった。


ここ最近邦画ばかり見ていて、何か引っかかっていたものがようやく見えてきた。私が見てきた映画が偏っていたのかもしれないが、邦画にはまだ日本古来からの父権主義的な男性が必ずと言っていいほど登場する。
最近の映画はそういう男性を悪いものだとして描く気概は見られるが、それを題材にしないというところまではなかなか踏み切れないようである。そういった作品がこのご時世にも何本も作られるということは、多くの日本人がそういう考えを好み、映画館に足を運んでいるということではないだろうか。そんな雰囲気のなか作られる映画が文化的に健全とは言い難いだろう。
少なくとも、映画産業にこういう映画が売れると思わせてしまうようでは日本は衰退していく一方なのではないか(まあ実際は映画館の中ガラガラだったのだが)。


大人は判ってくれない

大人は判ってくれない
監督:フランソワ・トリュフォー
出演:ジャン=ピエール・レオ パトリック・オーフェイ ほか
公開年:1959


映画における視線の役割は何だろうか。それを考える足掛かりをこの名作は与えてくれる。
この作品は、トリュフォー自身の自伝的映画であることが関係するのだろうか。他の作品と比べて一人称での映像表現が多い気がした。例えばアトラクションに乗ってぐるぐる回っているときや、警察に突き出されて金網の中に入れられているときなど。
また、ロングショットも多用される。これは特に主人公が街に繰り出していったときに上からの俯瞰として表現される。この一人称と三人称の併用のバランスが非常に良い。


アトラクションのシーンを例にとってみよう。
円柱状のアトラクションに乗せられて主人公はグルグル回される。その遠心力で床から足が離れて上下逆さまにもなる。こうした主人公の目線からの映像と外から見た映像が繰り返し映される。
正直、三半規管が激弱な私からすると酔いそうになったのでやめて欲しかったが、映像としては動きがあって、一人称と三人称の視点を行ったり来たりする体験をすることができて面白いものとなっている。


ではこのシーンをただの映像としてではなく、映画における視線という観点から見たらどうであろうか。
そもそもここで出てくるアトラクション自体、ゾーイトロープに似たような形状をしている。目の残像現象を利用して静止画を繋げて動いて見えるようにしたという点でいえば映画の原型ともいえるような機械の形状をしたアトラクションに画像の代わりに人を入れて回して、それを外からたくさんの人が観賞する。
このシーン自体が映画鑑賞の縮図となっていると言えよう。ただし、これと実際の映画鑑賞とでは決定的な違いがある。それは視線の双方向性の問題だ。


作中、主人公はアトラクションという一種の映画の中から外部の観客をまなざすことができる。別のシーンで金網の中に入れられた時だって、他人をまなざしていた。金網というのもなんだか見世物を彷彿とさせるものだ。その中から他者をまなざすことができるというのは今作の主人公に特殊な能力だ。
通常、映画の中の登場人物は、ただ一方的にまなざされるだけで、観客は誰にもまなざされることなく、そういう意味で俳優に対して優位を保ったまま鑑賞する。だが今作に関しては主人公はこちらをまなざす力を有しているのだ。
また、主人公は作中、人のことをよく観察していて、それゆえに知りたくなかったことまで知ってしまうことがある。この主人公の視線の特権性はまさに神の視線、何でもまなざすことができる。これは映画におけるカメラそのものである。
それだけでなく、感情を端的に表すことができるのも視線の役割である。作中幾度となく繰り返される対話中の二人の顔のアップのモンタージュ。その中で主人公は必ずと言っていいほど大人から目を逸らす。これは判ってくれない大人への反抗精神の表れであろうか。ただこの一瞬の視線の移動だけで対話中に感じている退屈さを表すことができる。


観た人の印象に強く残るであろう静止画のラストシーンにはまさに主人公のまなざしが表現されている。彼の特権的なまなざしが我々観客にまで及んでいることを暗示するかのようなラスト。
まさに、「汝が深淵を覗きこむとき、深淵もまた汝を覗き返している」のである。我々がただ映画という享楽に浸っている様子を彼はじっと見つめている。
そして、結局は自分の行動の真意、また自分の存在を認められていないことを悟り、彼はこう言うのだろう「大人は判ってくれない」と。