レンサイその1:現実に流れ出る映画:メディア・イメージ・情報

私は、映画の世界に生きていない。現実の世界に生きている。だけど、ものと私の間には、メディアがあり、そこにはイメージ/情報が乗っかる。
映画の中の物語・技術・手法は、やがてこうしたメディア/イメージ/情報に分かれ、現実世界へと流れてゆく。
私が大学で考えているのは、この現実世界に流れ出た方なのだが、漁師が山に木を植えて水質を改善するように、時には流れ出るものの始原に立ち返らないといけない時がある。
だから私は映画にゆき、そこで得た知見をここに書き留めておくのだ。

メモリア

MEMORIA メモリア
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン
出演:ティルダ・スウィントン エルキン・ディアス ほか
公開年:2021


映画だからこそ、出来る表現ってこれだよね、という正解の一つを、ポンと提示されたような、そんな映画だった。
近年Netflixなどの配信サイトで作られる映画も増えていき、映画と映像の違いが、あいまいになっているように感じる。もともと映画は「映画館で見る映像」だったのに、いろんなメディアで見られるようになったから、映画=映像となったのだ。


ただ、この「メモリア」は、映画館で見ないと意味がない、というか楽しめない。その意味で、これこそ単なる映像ではない、真の映画なのだ。どうしてそれが実現できたのかというと、「音」に注目して、それを基軸に作品を作っているからである。
映画館が他の映像を視聴するメディアに優っている点は、サラウンドかつ高品質、大音量のサウンドにある。音にこだわれば、それだけ映画が生きてくる。


ただ、音を主軸にした映画を作る、という発想は別に新しくない。ミュージカル映画は、大昔から、最近のアバンギャルド映画「アネット」まで、ずっと作られ続けている。この「メモリア」がすごいのは、今までにない、映画館の音響の使い方、物語への落とし込み方をした。それに尽きる。


例えばそれは、主観的な音の使用に見られる。音一つで、客観的な視点から主人公の視点に入り込むことができる。そしてまた、環境音をこれでもか、と味わせる贅沢な映像の使い方。観ている時、私は思ったのだ。ああ、映画館は、音を味わう場所なのだ、と。


電通の佐々木宏さんが、「スマホも、近づけると画面の大きさはテレビと対して変わらないから、結局メディアがスマホになってもCMの作り方は変わらない」と言っていたが、映画に関してはそう簡単に言い切れないだろう。
私はシネマカリテの、後ろの席で観たのだが、正直スマホよりも小さい画面だった(もっと手前の席にしてれば、、)。でも確かに、映画館でしか味わえないものが、メモリアにはあったのだ。


ディスパッチ

フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イブニングサン別冊
監督:ウェス・アンダーソン
出演:ビル・マーレイ ティモシー・シャラメ ほか
公開年:2021


映画という尺を丸々使って、1冊の雑誌の中身を表現する。すごいアイデアだと思う。映画の内容を知るために雑誌(それこそ、この「レンサイ」とかね!)を読む人はいても、雑誌の中身を知るために映画を見る人は、普通いない。
だけど、そうした忘れかけられているカルチャーを取り上げて、その魅力を余すところなく取り上げるのが、ウェスアンダーソン監督の真骨頂だし、彼の作る映画の魅力でもある。


これまでもウェスアンダーソン監督は、映画を細かくいくつかの章に分けて、章が変わるごとにアナウンスする、という独特のスタンスを取っていた。確かにその章を独立したコーナーにすれば、映画で雑誌を作ることは可能である。
なんだかんだ、実は彼が映画で雑誌を作る、という挑戦に一番適任の存在であったのだ。


しかし、途中からその挑戦に対して疑念が頭をもたげてきた。「雑誌を映像で表現するって、結局は王様のブランチとかの、お昼の情報番組と大して変わらないんじゃ、、」しかもテレビと違って、ザッピングも出来ないし、雑誌のように自分で見たい部分を主体的に選べるわけでもない。
新しい挑戦として映った「映画で作る雑誌」は、結局その形式が仇となってしまったように思われる。ハッキリ言って、情報過多だし、雑然とした印象になってしまった。


演技、カメラワーク、小道具に至るまで見られる監督の独特のこだわり(しかも今回はアスペクト比まで)は今回も遺憾無く発揮されているが、これに関してもミスマッチを感じてしまった。監督の映画は、これまで子供が主要なキャラクターとして出ていた。「グランドブタペストホテル」然り、「犬ヶ島」しかり。
それらの映画を見ているときは気づかなかったが、今回の映画で、子供の重要性がよく分かった。監督の描くおしゃれでカラフルで、ちょっとナンセンスな世界は、子供の目を通して映すことで初めて成立するものだったのだ。フレンチ・ディスパッチでは、最後の話を除いて登場するのは青年〜大人。かわいいおふざけ的映像を見ても、なんとなく痛々しさだけが出てしまう・


この映画を通して改めて感じたこと。それは今までのウェスアンダーソン監督作品が、絶妙なバランスの上で作られてきた映画だ、ということだ(特にグランドブタペストホテル)。そしてもうひとつ。映画で雑誌を作ることの可能性はまだ未知数、ということ。
例えば、記事全体に、ひとつのテーマ性を持たせたら。あるいは、章ごとに別々の監督が撮るオムニバス形式にしたらどうか。改善案がいくつか浮かぶ。ただそれで解決するかは分からない。結局、そういう内容に関しては、ザッピングできることが、絶対的な必要条件かもしれないから、、、、


グレタ

グレタ ひとりぼっちの挑戦
監督:ネイサン・グロスマン
出演:グレタ・トゥーンベリ ほか
公開年:2021


私はグレタ・トゥーンベリさんに興味があった。彼女は環境活動に取り組んでいるが、そのやり方はお世辞にも上手ではないな、と個人的に感じていたからだ。違う方法を模索する身として、彼女はなぜこのような方法を取るのか、それを探りたいと思った。


この映画を通して私が理解したのは、彼女は気候変動について警鐘を上げるしかないような状況に置かれている、ということだ。そこに戦略はない。彼女の行動は、残虐な行為を見せられて、人が心を痛めずにはいられないように、生得的で根源的なものだった。
それはストライキや演説のシーンのみを流すメディアを見ているだけでは理解できない、彼女の一つの側面である。


自分はアスペルガーであり、発達障害がある、とグレタさんは映画の中で自ら公言している。彼女は異様なほど記憶力があり、興味のあることに対して並外れた集中力を持つ一方、物事を完璧にこなすことに執着してしまう。だからこそ、彼女は地球の危機をダイレクトに感じるのだ。
普通の人だと、周りの人の声にかき消されて聴くことができないメッセージを、彼女は受け取れる。いや、受け取ってしまう。


「私のようにアスペルガーだったら、みんな地球環境の危機を感じるのに」映画の最後に、彼女が言った言葉が印象的だった。彼女は好きで今の生活を選び取っているわけではない。彼女は苦しんでいるんのだ。そしてそこからどうにか抜け出そうと、必死でもがいている。
彼女と同じ苦しみに立つことができたら。その苦しみを、責任を、彼女だけに背負わせずに済むのに。ドキュメンタリーを通じて、私たちはどこまで他人の心を理解することができるのだろうか。そう考えずにはいられなかった。



デモは拡散する。誰かが大声で何かを叫ぶと、それは周りへと伝播する。今の世の中は、その拡散がSNSの登場でより起こりやすくなっている。この映画でハッとさせられたのは、グレタさんの取り巻きがシュプレヒコールを行う中、本人は至って静かであるところだ。
そもそも彼女が最初に行ったことは、ストライキ、ただ黙って座り込むという行為だった。きっと彼女は、ギリシャの哲学のように、直に一対一で対話したいのだ。真の意味で理解し合うために。彼女を叫びの中に置いていては、彼女の繊細な心に到達することは難しい。
言葉を暴力的に叫び合う世界から、人の心、感覚を覗き見る世界に。そういうメディアを、私は考えたい。


ビルボード

スリー・ビルボード
監督:マーティン・マクドナー
出演:フランシス・マクドーマンド サム・ロックウェル ほか
公開年:2017


ドキュメンタリーを分析する授業で他の学生と話している中で、結局メディアの役割とは「対話」を生み出すものなんじゃないか、という意見が出た。その意見に、私はハッとさせられるものがあった。
哲学者ハーバーマスは、人々が意見を交わすことでより良い社会ができる、と考えていたが、それを私はあくまで理想論として考えていた。しかし、いくら理想でも、メディアはそこに向かって進まなくてはいけないんじゃないか。そう思ったのだ。


「スリー・ビルボード」は、メディアを軸にした話としても見ることができる。メディアと言っても、映画ではなく、3つの立て看板である。田舎道に、なぜか3つだけある巨大な看板。そこを通るものは、否応なく見てしまうことになる。
しかしこのメディアは、ただの看板ではない。というのもそれは、新聞が伝えるような、1つの社会的メッセージを伝えているからだ。しかしまた、それは新聞とも異なり、事件が解決するまでずっとそこに存在し続ける。1つのメッセージ性を持った事実が、誰にも見える形で、長期間突きつけられる。こんなメディアがあっただろうか。


そしてこの映画は、そうした特殊なメディアが、その特殊さによって、いかに因習的な田舎町に風穴を開け、対話を作り出していくかを、非常によく出来た脚本で描き出している。よく出来た、というのは、あくまでリアリティを担保しつつ、ハーバーマス的な理想と上手く繋げているという意味である。 間違いなくこれが、民主制を大事にするアメリカ人の心に刺さったことで、アカデミー賞にノミネートされ、かなり有力候補なところまで押し上げられたのである(ちなみに賞はシェイプオブウォーターが取った)。自分は日本人だから、アメリカ人の心はあくまで推測ではあるけれど。


一方で、スリー・ビルボードはあくまで看板ではなく、映画なのである。結局は映画館に足を運んだ人しか、リアルに看板のメッセージを見ていないし、その後の顛末を知らない。映画は、看板のように全く興味ない人も否応なく巻き込むような暴力性を持たないのである。まあ、だからこそ様々な表現が可能になったのだけれど。
でも、映画も、そうした対話を生むというか、世の中全体にリーチして、世論をかき回す力を持ってもいいと思うのである。特に、ドキュメンタリーが視聴率を取れないせいで、TVの枠から追い出されそうになっている現代においては。


そういう点で、私が注目したいのは、映画のポスターとかの、広告である。あの、ハリウッドとかだとやけに大々的な宣伝。否応なく私たちは映画の一部を目にすることになるわけだ。あれも、映画の一部だと思ってディレクションする。単にターゲットの人に向けたものではなく、社会全体に波紋を投げかけるような形にする。そうした考えを持つことで、真に対話を生み出すような映画、世の中をかき回すような映画が生まれてくるのではないか、と思う。


ペンタゴン

ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書
監督:スティーブン・スピルバーグ
出演:メリル・ストリープ トム・ハンクス ほか
公開年:2017


歴史上の事件、しかも戦いのような派手なものではないものを主題に据えた映画というと、その出来事やそれに関わった人物について詳しく知る、というモチベーションで映画に向かう人が多いのではないかと思う。まるでドキュメンタリー映画を見るように。 しかし、そこは流石のスピルバーグ監督で、この映画はエンターテイメント映画と呼ぶべきものに仕上がっていた。「シンドラーのリスト」でも圧倒されたけど、政治家と新聞記者という、お堅い人しか出ない映画であっても、エンタメにすることができるというのは、すごい技術だと改めて思う。


ここで、エンタメとは何か、一度定義をしておきたい。4月に参加したエンタメのアイデアソンでは考え付かなかった定義なのだが、要はエンタメというのは、個人が無意識に欲していることを形にする、ということである。そう私は考える。欲していないことをやるのはただの自己満だが、みんなが欲していることをやるだけでも、それが「楽しい」という風には感じてもらえない。
この映画は、別におふざけシーンみたいなものはないのだが、しっかりとアメリカの無意識な欲求を刺激している。だからエンタメなのだ。


では、その無意識の欲求とは何か。それは、アメリカが民主主義の国であり、自由な国であり、その意味で素晴らしい国である、ということを確認したいという欲求である。そこに女性の活躍といった現代的なスパイスも加えてあるものの、このペンタゴンペーパーは、そうしたアメリカの美徳が勝利する場面にフォーカスして、2時間たっぷりと使って描いた映画なのだ。
なので結局振り返ると、映画の中身は機密文書を正義の心でスクープする、というだけであり、その薄さは同時期に作っていた娯楽作、レディプレーヤー1とさして変わりはない


だからと言って、この映画が薄っぺらだから価値が無い、と言いたいわけでは無い。個人が無意識に欲していることがそんな複雑なわけないのだから、エンタメであるためには、薄っぺらで良いのである。むしろこの映画は、そうしたエンタメの要素も持ちつつ、ちゃんと社会に対し物申す映画になっていて素晴らしい。
この映画が作られていた当時、ちょうどトランプ政権ができ、新聞やテレビなどのメディアが「フェイクニュース」呼ばわりされるという危機に陥っていた。スピルバーグ監督はこの映画を非常に短いスパンで作ったそうだが、その裏には世の中に対する危機感の気持ちがあったのではないだろうか。


真面目に正論を言うだけの映像とは違い、エンタメを通して、人が本来欲していたものに気付かせることで、社会の流れを変える。人を洗脳するのでもなく、正論で興を醒めさせるのでもなく、元々あった、美徳という不安定なものを強固にする。こういう映画、こういうエンタメがもっと世の中にあって良いと思う。エンタメ映画の可能性は、そこにあるように感じる。


スモールランド

マイスモールランド
監督:川和田恵真
出演:嵐莉菜 奥平大兼 ほか
公開年:2022


入管を取り上げたドキュメンタリーはいくつか既にある。この映画は、同じテーマに対して、劇映画で表現する、というルートをとった。そこに、興味を惹かれた。そっちの道の先にはどういうものが見えるのか。この映画を見た私は、どのような感情になるのだろうか。
その問いは同時に、劇映画そのものに対しての問いにもなる。


新鮮に思えたのは、劇映画の方が、よりリアルな感情を得られた気がしたことだった。実際は当事者ではなくて、演技を見ているだけなのに。でも考えてみれば、ドキュメンタリーでも、中にいる人は演技をしている。他者がカメラを持って近づいても、素の自分をさらけだせる人は滅多にいないだろう。
一方で、心を許した人にだけ話す言葉や伝える気持ちがあって、それはドキュメンタリーでは見ることができない。だから劇映画を通じて「再現」する。


再現、でいうと、この映画ではクルド人役をクルド人以外の人が演じている、という例が多い。これは原作ありきのやつだと、たまに炎上するやつだ。最近で思い出すのは、ゴーストインザシェルのスカーレットヨハンソンとか。でも、この映画に関しては、むしろプラスの要素になっていると感じた。
有名な芸能人が、カメラが回っている時だけ、マイノリティの人に「なる」。撮影が終わっても、それは記憶として残り続ける。クルド人は、もう他人ではない。同じ記憶を共有する人として、そこには連帯ができる。


そうして池袋シネマ・ロサにいた僕たちは、心を許した人にだけ話す言葉を聞き、よく見るタレントや俳優がマイノリティの人に「なる」ところを目撃したわけだ。しかし、物語は最終的に解決策を示すことなく、問題提起だけして終わる。どうすればいいのか、皆さんで続きを考えてください、と言わんばかりに。 なかなか答えの出ない問題なだけに、上映後、そういう状況に置かれた僕たちはモヤモヤしてしまった。


もし、ドキュメンタリーに良さがあるとするなら、それはフラットな、冷静な気持ちで問題を見つめることができる、ということだろうか。私たちは当事者の人に心は重ねるわけだけど、その人になるわけではなく、あくまで他人として見る。解決策の見えない中で、どう考えるか、という時に必要なのは、そのような態度だと思う。全員の気持ちを慮れる第三者として問題を見つめること。解決方法が見えない問題に対して、きちんと議論できるような世の中になって欲しいと、ぼんやり考えた。