COLUMN:『時計じかけのオレンジ』を見る


時計仕掛けのオレンジ

時計じかけのオレンジ
監督:スタンリー・キューブリック
出演:マルコム・マクダウェル パトリック・マギー ほか
公開年:1972


「『時計じかけのオレンジ』を見る」は、1972年スタンリー・キューブリックが製作・脚本・監督を担当した『時計じかけのオレンジ』というタイトルの映画を「見る」(事物の様子を把握するために視線を投げかけるという意味の動詞であるが)という至って単純な概念を組み合わせた表題であるけれど、このテクストが言わんとしていることの分かる人間が一体どれほどいるのだろうか。それよりも、この映画を見て、マルコム・マクダウェルが一度失ってしまった自らの欲望を社会に対抗して取り戻す過程に心が動かされるという分かりやすい物語に魅せられているばかりなのではないか。このタイトルを躓かずに読んだということは、映画を「見る」とはどういうことかを本当に理解していないということと同じである。


映画を「見る」ことは、前述のように主人公の奮闘する姿に対して自分自身の経験を踏まえて感情移入する、ストーリーに駆動された営為では断じてない。ましてや、マルコム・マクダウェルが過激な映像を暇なしに繰り返し視聴する「治療(=去勢)」を経て女性の靴を舐めるまでに懐柔されてしまったことによって提示される科学の問題点や、続く監獄の司祭が人間に行うには卑劣な行為であると高らかに宣言する描写から宗教と科学の関係を論じることなど、数多くある批評誌の一論考にもなり得ない。

映画を「見る」とは何なのか。マルコム・マクダウェルとウォーレン・クラーク、ジョージ・マーカス、マイケル・ターンの4人組がバーで手にしているものに着目する人は多いだろう。彼らは、細長い円柱状の透明なコップに入った「牛乳」を飲んでいる。ここで、映画について少しでも知識があると自負している読者は、必ずアルフレッド・ヒッチコックの『断崖』でケーリー・グラントが螺旋階段を使って登ってくる際にお盆に載せて持ってくるものも、それと酷似していることを思い出す。これは、映画を「見る」ことに近いと言えるが、それ自体ではない。真に映画を「見る」ということは、創作の過程における無意識に紐付けられた細部を暗闇の中で孤独に発見することに他ならない。


本作で見られる「映画」の一つは、マルコム・マクダウェルが"HOME"と書かれた看板を頼りに以前押し入った家だとも知らず、愚かにも助けを求めて入ってしまった玄関と観客から見てその右隣のドア、その反対に貼られた一面の鏡の配置が、本監督作の『2001年宇宙の旅』にて宇宙の果てに辿り着いたキア・デュリアの年老いた後ろ姿が見える白い部屋の入り口の隙間とその両隣の余白とが、どちらも綺麗に画面上3等分で一致しており、彼らはその構図に置かれたとき、時間を行ったり戻ったりしてしまうこと、つまりその構図が画面に映る人物を三つ折りに畳み込まれる/開かれるように未来/過去へと飛翔させる装置になっている、という決して偶然とは言えぬ出来事なのだ。