レンサイその8:バトル

最近は、人と人が戦う映画が少ないように思う。それは暴力で物事を解決しようとするということへの反発という面も、もしかしたらあるのかもしれない。ただ、本来、物事の解決の理想は戦いだった。それは弁証法と呼ばれていたものだ。AとBが戦った結果、Cが生まれる。つまりより良い答えへのステップとして、異なるもの同士の戦いは必要不可欠なものなのだ。
私は、物語において、戦いの持つ弁証法的な導きの機能に注目したい。それが映画を含めて、これからの物語を切り開くものになると思うから。

バトルロワイヤル

バトル・ロワイヤル
監督:深作欣二
出演:藤原竜也 ビートたけし ほか
公開年:2000


殺し合いものの、元祖的な作品。私が中高生だった2010年代は、これに影響された、2次的な作品がよく読まれて/観られていたものだ(例えばインシテミルとか)。ただ今回改めて観て感じたのは、派生作品に比べて、本作が不条理を強調したものになっている、ということだ。いくつかの生徒の視点を混ぜながら作られているが、その視点の多くは、戦いには消極的なのに、不条理にも戦いに巻き込まれる生徒たちである。


派生作品が、主人公が頭脳を使って状況を積極的に切り開いていく、戦略ゲーム的要素を持っているならば、こちらは不条理にただただ巻き込まれていくという悲劇的な要素が強い。そもそも、この物語は何層もの不条理で出来ている。殺人をなんとも思わない人に殺される不条理、大人たちの勝手なゲームにそもそも参加させられているという不条理、そうしたゲームをやらざるを得なくなった、日本社会の不条理、、、。

では、殺し合いはあっても、(意志のぶつかり合いとしての)戦いは存在しないのか?結局のところ、学生同士の殺し合いは殺し合いであって、戦いではない。しかし戦いも描かれていて、それは将来になんとか希望を見出そうとする子供たちと、教師役のビートたけしを含めた悲観的な大人たちの戦いなのである。ビートたけしの存在感が、物語をただの殺し合いゲームから一歩、深いものにしている。


ただ、その戦いはいわゆる抑圧とそれに対する解放の欲求という部分に留まっているような気がする。本作はホラーやスリラー的な演出が多いが、それは未知なものを未知のままに対処(退治)するという形式だ。バトルは、互いに理解した上で(あるいは互いに理解するために)戦う、、というものだ、と私は思う。それでいうと、最後の大人対子供の構図も、物足りなさを感じてしまう。


それでも映画が成立しているのは、この物足りなさがビートたけしの佇まいを良く演出しているからだと、私は思う。言いたいことが腹の中にはあるが、それを表には出さない、という態度。(北野武作品もそうした要素が強いと思う)それはある意味省略の美であり、私たちは省略された戦いを読み取り、改めて自分の中で考え直すのだ。そうすることによって、非現実的なこの映画が、本当の意味を持ってくるように思う。


バトルロワイヤル

ノロワ
監督:ジャック・リヴェット
出演:ベルナデット・ラフォン ジェラルディン・チャップリン ほか
公開年:1976


「デュエル」という、まさにバトルそのままのタイトルの作品が、あまりにバトルとかけ離れていたので期待を裏切られた私は、それと同じシリーズの作品であるノロワを続けて観た。「デュエル」がサスペンスを意図して作られた映画なら、こちらは西部劇として作られたという。確かに、「デュエル」よりは戦うシーンが多かったものの、結果を先に言うと、バトルを期待する鑑賞者(私)を満足させるものではなかった。


まず気になるのが、戦闘のキレの悪さと緊迫感の無さである。まず前者について。舞台をあえてアメリカ西部ではなく中世のフランスにして、西部劇というものをメタ的に捉えようとしているのは感じられるのだが、いかんせん戦闘の迫力が本家の西部劇より劣る。西部劇と言っても、暗闇の中剣で戦うシーンが多いので、どちらかというとむしろ日本の時代劇を連想させるが、日本の時代劇の所作の流れとは比べ物にならない。

それもそのはずなのだ。例えば時代劇なら、日本にはそれ専用のスタジオがあり、役者がいて、監督がいる。定期的にそういった戦闘ものを作ってノウハウを持っていないと、いくら巨匠と言われる監督でも迫力のある戦闘は撮れない。日本の特撮や時代劇が、非常に重要なレガシーであることに、逆説的にも私は気づかされることになった。戦闘は、一朝一夕では描くことができないのだ。


2つ目の緊迫感の無さについても触れておく。この作品に限らず、リヴェット監督は、女性×女性の関係性を描こうとしている。だから戦闘も女性×女性の先頭になるわけだけど、どうもそこでは勝負の真剣さどうこうより、女性同士のじゃれあいのようなコミカルな動作に、監督の興味があるようである。ユーモアという名のもとに、この勝負に負けたら終わり、というような手に汗握る緊張感を捨て去ってしまっているのだ。

「セリーヌとジュリーは舟でゆく」は、女性同士のユーモアで、古風な映画を茶化す部分が面白かったし、時代を切り開く力強さも感じたわけだけれど、なぜ西部劇をナンセンスなものにしなくてはならなかったのか。西部劇や時代劇は、昔のままでも良いではないか。バトルは、結局のところ様式美のような部分がある。それはこれからも代々受け継ぐべきもので、茶化してしまうと、映画館でバトルを楽しむということそのものが台無しになってしまう。


翔んで埼玉

翔んで埼玉
監督:武内英樹
出演:二階堂ふみ GACKT ほか
公開年:2019


金曜ロードショーで最近観た時の感想で恐縮なのだが、これほど目まぐるしく世界観が変わる映画もなかなかないな、と思った。基本的には埼玉が蜂起する話だが、そのバトルの方法は、登場する世界観によって様々に変わる。実際に暴力沙汰になりそうなものもあれば、都会指数をただ競い合うだけのバトルもある。しかし、そうした闇鍋的な映画にもかかわらず、一つの映画として見ることができた。これは一体なぜなのか?

映画を振り返って見ると、特徴として、背景の視覚的な説明の強さがあると思う。分かりやすい近未来的な東京の街が映し出されたら、そこにブレードランナーのように、治安を維持する団体との一門着が来ることはなんとなく想像ができる。あるいは群馬をジャングルとして大袈裟に描いたら、そこでインディ・ジョーンズが始まっても何の違和感もない。既視感のある背景を見せることで、そのあと起こることを理解しやすくさせている。


また一見バラバラに見える世界観も、聴き馴染みのある地名によって接続され、一つの世界として受け入れることが可能になっている。東京=近未来、埼玉=戦国〜江戸、千葉=江戸〜昭和、群馬=旧石器時代以前と置換された様々な(既視感のある)世界観が、日本に嵌め込まれ、一つになっている。土地のことを知っている関東圏の人以外は逆に分かりにくいかもしれないが、これは発明だと思う。


一つ一つの世界観の演出も本格的で良かった。千葉での仮面ライダー的なバイクアクションシーンや、埼玉での時代劇っぽいシーンは、さすがの東映クオリティだった。逆に東映以外だとなかなか難しかっただろうと思う。ジャンル映画しか作れないと思われたこうした技術が、ハイブリッドされることだってあるのだ。


ただちょっと気になったのは、最後の戦いのシーンだけ、これまでの過剰なエフェクトは息を潜め、新宿の実際の景色をメインに使ったものとなっている(池袋のイメージ映像とは大きな違いだ!)。みんなのよく知っている街の方が、日常内の非日常、という感じで面白いという特撮的意図なのは分かるけれど、結局その都市の残し方に、しぶとく残る都会の優位性を感じてしまった、、。