レンサイその7:ミステリー

実はミステリーにあまり触れてこなかった。その理由はおそらく、「ミステリー」と声高にいうことに、殺人者を見つけることを娯楽に結び付けているような印象を持っていたことにあると思う。
だけど、技巧と情感のはざま、娯楽と芸術性のはざまで揺れるミステリーに向き合うこと、それに向き合う人を丁寧に観察することが、今の自分にとって必要なことのように思えてきたのだ。これが今の、自分の物語への 向き合い方なのかもしれない。今月からは、様々なジャンルのミステリー作品を取り上げて、揺れ動く二つの軸から、鑑賞してみたいと思っている。

告白

告白
監督:中島哲也
出演:松たか子 橋本愛 ほか
公開年:2010


人ひとりの人生観を伝えるのにかかる時間は、せいぜい5分くらいなのだな、とこの映画を観て思った。そして5分というのはミュージックビデオの平均的な長さでもある。つまり、ミュージックビデオをBGMにして、歌詞の部分を独白にすれば、その人がどういう人であるかというのを、印象的に伝えることができる。この映画はある意味で、様々な人の視点を描く、ミュージックビデオの詰め合わせだ。実際に、レディオヘッドやAKBなど、かかる曲も良い。


ミュージックビデオに例えることで、この映画を蔑んでいるわけではない。人の視点を足し合わせていくことで、隠れていた真実がだんだんと見えていくのが、ミステリの醍醐味で、原作の本もそうである。本来、説明に時間を割かなければいけないその部分を、映像として楽しめるものに仕上げた。そこに中島監督の手腕が光っている。伝える内容から、印象的な表現を生成するのは、彼のもう一つの顔である、CM制作にも通じているのでは、と深読みした。

ただ、ここで算数をすると、映画本編の時間である約100分から、登場人物の人生観の説明を抜いても、まだ結構尺がある。この尺が何に相当しているかというと、要は人生観の反復である。つまりある人を恨む人は恨み続けるし、ある人に気に入られたい、と思っている人はそう思い続ける。衝撃的な展開が続くから楽しめるけれど、そこに冗長さを感じてしまう人はいるかもしれない。


冒頭の映像はだから、この映画全体の象徴でもある。様々に重ねられた音の中で、それぞれが別の音を聞いて、別のコミュニケーションをとっている、あの光景・・・。もちろん、それぞれが違った視点を持っているから、それを足し合わせていく楽しみがある。だけど、登場人物の考えが映画を通して変わったりする、それも映画が提供することのできる、一つの醍醐味だと思う(おそらく恋愛映画には必須の要素である)。


映画の中で言及されているドストエフスキーの「罪と罰」は、殺人者を追い詰めていくミステリである一方、殺人者=主人公(ラスコーリニコフ)であって、彼の揺れ動く心情を丹念に描いた作品でもある。本作とどちらが素晴らしいかを競う意図はなく、要するに、ミステリの話の軸に、登場人物の視点の動きの有無があり、それがどの程度であるかによって、物語も、それを表現する映像も、変わってくるということなのだろう。


天文

ある天文学者の恋文
監督:ジュゼッペ・トルナトーレ
出演:ジェレミー・アイアンズ オルガ・キュリレンコ ほか
公開年:2016


不思議な作品だった。感情移入は特にないのだけれど、終盤では、天文学者の行動に魅入っている自分がいた。ただエゴである人間であれば、そこに人を引きつける要素はなかっただろう。彼はどう見ても独占欲の強い人間なのだが、天文学者ということで、神秘と接続しているかのような印象を受ける。ある意味で、彼の行動は天上で起こっている事象の、反映の一つなのかもしれない、と。


宇宙物理というものそれ自体が、人間のエゴを遠く離れた一つの揺るぎない秩序であり、それを学ぶ人はある程度、エゴを捨て去って秩序の前にひざまずく必要がある。メインの登場人物2人とも、そのように天文学を学び、エゴを漂白した者であるこの映画に、感情移入ができないのは仕方のないことなのだ。感情移入というのは、登場人物のエゴに、自分のエゴを重ね合わせる行為に他ならないから。

この映画は「ミステリー」と銘打っていて、だからこそ自分も、ミステリー映画として見た。だが、隠されている謎自体に、見るものを引きつけるものはないという点で、ミステリーと言えるかどうかは微妙なところではある。むしろ、映画を最後まで見た後に、これまでを振り返って、人の存在や行動にどういう意味があったのかを確認することで、ようやく映画を見た充足感がやってくるような、、そんな映画なのである。


そしてそのスタイルは、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の代表作、「ニューシネマ・パラダイス」と同じなのである。よく考えれば、構造としては両者には近いものがある(老いることや死ぬことについての考察、ある種の師弟関係、等々)。しかし天文学という理系チックなテーマだったり、イギリスのモヤがかかった陰鬱な風景だったりで、全く二番煎じという印象は受けなかった。そこが、改めて面白いと感じた。


現代アートやスタントという作品を彩るスパイスの他に、この作品には記録メディアが多く登場する。ニューシネマ・パラダイスが、フィルムというメディアをレトロスペクティブに描く作品なら、この作品はスマートフォンやパソコンの使用のその先を見つめている印象がある。奇妙な出来事が起こるわけだが、それは今となっては現実でも起こりうるものなのである。技術による感覚の拡張の先に、私たちを何が待っているのだろうか。


犬神家

犬神家の一族
監督:市川崑
出演:石坂浩二 島田陽子 ほか
公開年:1976


改めて見返すまでもなく、やはり今から見ても斬新な映像表現に心を奪われる。ただ、原作は小説であって、おおむね原作通りに映画は作られている。つまり、映像が文章に従属しているわけである。文章だけ読んでも、犯人を当てることは出来るだろう。これは小説原作のミステリー映画の、一つの限界と言えるのかもしれない。映像ならば、言葉に頼らずに伏線を張ることができるのに。


映像ならではの伏線の張り方の1つ目の例が、視線である。まず、冒頭で犬神佐兵衛が、家族に囲まれ、病床にて死ぬシーン。最期、何かを言いたげに佐兵衛は家族を見るが、佐兵衛の顔しか映さないので、誰を見たのかは明らかにならない。佐兵衛の意図とは何だったのか、という謎が、作品に奥行きを与えている。小説だと、誰を見たか、目的語を書かないといけないので、こんな曖昧な表現はできない。本作では奥行きを与えている程度だが、これをもっと話に絡ませることもできるはずだ。

あとは、インサートの映像。今回は松子さんが鳴らす琴のシーンが印象的だが、映画だと、こうした短く話の筋に関係のない映像を流すことに、違和感を感じない。一方、これが小説ではそうはいかないだろう。わざわざページを割いてシーンを描いているのだから、そこに何かしらの意図を感じてしまう。今回は小説原作なので、必然的に、インサートはインサート止まりだが、伏線にすることは可能である。


別にそういう映像ありきの伏線が無いと不満である、ということを言いたいのではなくて、監督の画に色々と想像力を掻き立てられた結果、そうした伏線になる可能性のあるものについて、思いを巡らせることになったのだ、と思う。優れたミステリ映画とはそういうものなのかもしれない。映像の中にヒントはないのに、ヒントがあるような気がして、視聴者を迷わせる、というような。


伏線の想像力を書き立てる演出とは何だったのか、と思い返すと、やはりそれは「見えないこと」「隠すこと」にあるのだと思う。あえて写真を途中でぼかしたり(冒頭)、登場人物の顔が隠れていたり、エフェクトを強く掛けた映像、暗闇を強調した場面…。そうしたものの影が、私たち鑑賞者に対して、偽の伏線を想像することを駆り立てるのだと思う。


ナイル

ナイル殺人事件
監督:ケネス・ブラナー
出演:ケネス・ブラナー ガル・ガドット ほか
公開年:2022


オリエント急行殺人事件もそうだけど、やはり場所のスケールがデカい。場所とミステリーは、一見関係なさそうに見せかけて(つまり、トリックに必ずしも必要な要素じゃない)、実は大きく関係している。それは、場所=資本であり、資本あるところに欲望が起こり、欲望が殺人を呼び寄せるのである。この作品は、(意識的かはわからないけど)場所・資本・欲望というミステリを取り巻く3要素を、上手く映像で描き分けて表現しており、さすがだなと思った。


本作では、「場所」はナイル川およびエジプトのことである。エジプトというだけで画になるから、映画には都合が良い。それだけでなく、こうした観光地は、金がないと来られない。だからエジプトがそのまま、今回の大富豪リネットの富豪さの象徴にもなるわけだ。そしてそれだけの富豪だから、彼女の金や命を狙うものの存在にも真実味が湧く。一見エジプト抜きで成立しそうな話だが、むしろエジプトがミステリーに不可欠な不安定さを生み出している。

さらに本作は、場所、資本、欲望を、スケールを変えることで満遍なく表現することに成功している。例を出そう。ピラミッドの迫力ある空撮でその巨大さに息を呑んだ後(大スケール)、そのまま豪邸の空撮に視点が移り、その次に豪邸の中でのパーティーのシーンになる(長めの、視点が移動するショットで、たくさんの人を出す(中スケール)。そしてその中にいる、1人ひとりの表情(喜びと憎しみ)を見せる(小スケール)。これにより、特に前半は飽きない。


後半は船の中で完結してしまい、しかも夜なので、前半のようなスケールの変化は出しづらく、短調に感じてしまう部分もあったことは否めない。そこでバランスを出すために、愛について熱っぽく語るシーンを強調したのだろう。それはエンターテイメントとしては王道なものである(悲劇の系譜に連なるものだ)反面、コテコテのものになってしまい、新鮮味が足りなくなる。前半の新鮮味も、技術の進歩で可能になった(大スケール)にあったわけだし。


それで言うと、ほぼ同時期に公開していた、同じケネス・ブラナー監督の「ベルファスト」は、本作とは真逆の作り方をしていると思った。つまり、脚本的には稚拙で歪なのだが、だからこそ過去の創作物の焼き直しにとどまらない新鮮味があった。本作品を見て、王道なやり方で描けるからこそ、その真逆も描くことができるのかもしれない、と言う気持ちになった。王道を知ることが、新鮮さを得ることの近道であることもあるのだ。