レンサイその6:人生の彩り

映画を鑑賞することは、それに関わる人々の思想に触れることだと考える。
私にはそれらを全て読み取れるほど教養がないが、文化的な営みは我々に教養を与えてくれ、人生を彩ってくれる。
私という1人の人間が、少しずつ教養を身につける過程をここに綴る。

犬王

犬王
監督:湯浅政明
出演:アヴちゃん 森山未來 ほか
公開年:2022


映画における音楽の効用を改めて考えさせてくれる映画であった。
最初のシーンの時間をさかのぼっていることを表すモンタージュや、目が見えないことを表現するための色彩感覚など、視覚的な要素で語りたいことはたくさんあるものの、琵琶法師が主要人物として描かれたり、音楽のライブ的な演出が使われていたため、私は今回、視覚的な要素よりも聴覚的な要素について書きたいと思う。


犬王と友魚が初めて出会ったシーンで、友魚が自分の音楽について「日常の音を音楽にしてるだけ」と語る。しかし、我々の日常に友魚が奏でるような音がそのまま流れているわけではない。
むしろ、我々の日常からしたら音楽というものは異質なものである。それなのに我々は映画で流れるBGMを自然なものと感じる。それはなぜだろう。


丸山真男が『日本の思想』において「イリュージョンの方が現実よりも一層リアルな意味をもつという逆説的な事態が起る」と語っている。これは映画における音楽とは何かを考える足がかりを与えてくれる。
我々はそもそも、所謂現実を認識できていなく、我々の判断や認識はそのものに関するイメージによっている。そう考えると、イメージというものが物そのものよりもリアリティを帯びてくるというのは当然の帰結と言えよう。


以上のことから、友魚の発言は友魚自身の日常に対するイメージを音楽として具現化しているということになる。そのイメージがいくら現実、ないしは自然と乖離していようが、そのイメージさえ共有されていればそれはリアリティのある物として受け取られることになる。
これは映画における音楽全般に言えることだと私は考える。BGMというものは、それが付けられる映像のイメージとよほどの乖離がない限り自然なものとして受け取られる。それは今作のバンドのシーンを見れば一目瞭然である。
時代背景として、あの時代にエレキギターが存在するわけがないし、映像としては琵琶を弾いているのだが、音楽としてはエレキギターのバンドの音が重ねられている。だが、観客は何の違和感もなしに自然なものとしてその音楽を受け取る。
こういったイリュージョンを自然な形で表出させることができるのが、映画における音楽というものではないだろうか。


私が本物、真実だと思っているものでもその実情はただのイメージに過ぎない。それを知覚しているだけで、ものそのものを捉えることは私たちにはできない。
私たちとは、そういった知覚の束に過ぎないと言ったら、悲観的に聞こえるかもしれないがそれは逆に言えば、まったく同じ知覚をし続けてきた人がいない限り私の私らしさというものは保証されるということかもしれない。
そこから私が何者かを直接定義して示すことができるわけではないが、少なくとも一人として同じ人はいないということは言える。我々のアイデンティティは、知覚によるのだろう。

硫黄島

硫黄島からの手紙
監督:クリント・イーストウッド
出演:二宮和也 渡辺謙 ほか
公開年:2006


ドキュメンタリーかのような硫黄島の壊れた大砲のモンタージュから今作は始まる。その後、硫黄島に当時いた兵士たちの手紙を発掘するカットに重ね合わされるように当時の人たちが塹壕を掘っているカットにつなげられ、そこから過去は記述される。
この作品は、映画における表象の限界について考えるきっかけをくれる。


表象とはrepresentationすなわち今、現前しているものを改めて現前させる行為である。
そういった行為において、過去の出来事、特に戦争の記録などは取り扱いが非常に難しい。なぜなら、もう戦争そのものは現前していないからである。残っているものは勝者が見た景色と少数の生存した敗者の見た景色とその記述である。
記述というものは既に何らかのメディアの媒介を受けていて、その影響は免れない。また、人の記憶というものは曖昧で脆く、そういったこれまでに表象されたものと自分の記憶を混合してしまうこともある。
それに非常に重要なのは、「死人に口なし」という言葉の通り死者が見た景色の大半は忘れ去られている可能性が高いことである。我々が表象しようとする事象の語りはそれそのものに生存者バイアスがかかっていることもありえよう。


では、我々は過去の出来事を表象出来ないからと言って表象しなくてもよいのだろうか。
戦争という出来事を表現しなくなるといずれ忘れ去られてしまうだろう。現に我々は戦争についての記述や今回のように映画などのメディアを通じて過去の出来事を知ることができているからこそ出来事そのものを風化させないでいられる。
忘却することは、その被害にあった人々への冒涜である。しかし、全貌を把握できない出来事を表象しても、それは生存者からの記録しか語られていないと、それもまた本当の被害者への冒涜になるという一種のジレンマを抱えている。


この作品は前述した通り、一見するとドキュメンタリーのような記述なのだが、すべてセットで演技をしているものに過ぎない。そして、『父親たちの星条旗』と合わせて戦争を両側から表現されたものだと評価される。
この戦争のすべてに寄り添っている感じを出すのは実は危険なことなのではないか。この作品にも寄り添えていない人たちはたくさんいる。嫌な言い方をすれば、たくさんの被害者たちを物語となるように捨象して表現しているともいえる。
それなのに、この作品はその表象するときの違和感をなるべく消すような演出がなされる。役者の演技の上手くて、観客の同情を誘う。そうやって戦争の嫌なところもすべて表現するような顔をして物語を表現する。そしてそのことに大抵の観客が気付かないであろうことにこの作品の危うさがある。


だからと言って、この作品がすべて悪いとは思わない。このレビューの評価に表れている通り私個人としてはとても好きな映画であった。なにより大好きな二宮和也の迫真の演技を見れてとてもよかった。
この映画は、演出も非常に巧みで日本兵と米兵の共通性が繰り返し表現される。作中何度も「なんで本質的には同じ人たちが殺しあわなくてはならなかったのだろう」と考えさせられた。この経験は何事にも代えられないものだと思うし、見てよかったと心から思える。
しかし、見る側のリテラシーを考えるとこの表現の危うさというものも同時に見えてきた。表象の限界に直面した時、我々はどうすればよいのだろうか。

罪の声

罪の声
監督:土井裕泰
出演:星野源 小栗旬 ほか
公開年:2020


野木亜紀子が脚本を書いているだけあって、社会的な問題を身近なものに感じさせる映画だった。その点は流石の脚本能力である。
しかし、ドラマと違って映画は大抵2時間前後で終わらせるように作るものであり、そこがドラマと映画のかなり大きい違いなのであろうと思わされた作品であった。


日本のドラマは、1クール10話程度のボリュームで作成されることが多い。1話がCMを除いて45分くらいなので、一つの作品に450分、つまり7時間半の情報量を詰め込めるわけである。
さらに、地上波で放送されるドラマはネットフリックスなどで配信されるドラマとは違って一週間に1話ずつ区切りを設けて見るように作られている。これが映画の場合だと、長時間上映になると休憩が差し込まれることもあるが、わざわざその休憩を1時間おきに、ましてや一週間も取ってくれるわけではない。
一週間あれば情報を整理することができ、また適度に情報を忘れることができる。そうやって脳の容量を毎回確保してみられることがドラマにおいて情報量を映画以上に詰め込める所以であろう。


今作の場合、原作がそもそも複雑な設定なため仕方がないのかもしれないが、一本の映画を見るには情報量が多すぎるように感じた。途中からは二人の主人公の動線が合流し、かなり簡潔になるのだが、そもそもストーリーの進み方が複雑で、動線がいくつも同時に進行しており、そのそれぞれがモンタージュによって自然に繋げられることで誰が何をしているのかを把握するのがかなり大変である。
そして、最初のほうでなによりつらいのが二人の主人公が別々の動線でアプローチしているので、その結果まったく同じ人からまったく同じ話を聞かなくてはならなくなる。「もうこの話聞いたからいいよ」と言いたくなるような情報の反復。ただでさえ情報が多いのだからこれ以上同じ情報で脳の容量を圧迫して欲しくないものだ。
話が進んでいくと、その話がカギとなって物語が進むため必要なシーンではあるのだろうが、もう少し違う表現の仕方はなかったのだろうか。


さらに、この作品を見ていて疲れる要因は、とにかく画面がパンパンなのである。対談しているシーンでは、人の顔のアップが交互に映されるし、ビデオテープを再生しているときはテープが回っているところがアップで映される。 とある柔道場に取材に行くシーンで取材をされている人の後ろで、人がぎゅうぎゅうに詰まって練習していたのは、そこまでしてでも画面を埋めたいという制作側のこだわりのようなものを感じて、そこまでするか?と少し面白かった。
人がフォーカスされるシーンにはそういったパンパンの画面が多く、風景を映す時にはとにかく開けた様子で美しい自然をものすごく短時間映す。画として美しいのでもう少し長く映していてもいいのだけれど、と思ってしまうような不自然な切り取られ方をするので、後述するがやっぱり尺が足りていないのだなと実感させられた。


以上に述べたことから、見ているだけでもかなり疲れる映画になっているのだが、思い返してみれば、野木亜紀子脚本の作品は大体どの作品もこういう感じである。では、なぜ今作だけこんなにも情報量過多に感じたのだろうか。
それはひとえに、これが映画であるからだ。普段私が見ているようなドラマは前述したような性格を持っているため、同じ情報量の詰め込み方をしても疲労感を感じにくいのである。『犬王』は、比較的親切で、簡潔にまとめられていたし、ライブパートという頭を使わずにも楽しめるシーンが用意されていたが、今作はそういった箸休め的なシーンがあまりにも少ない。
私が思うに野木亜紀子が本格的に社会派の作品を作ろうとすると映画やドラマの特別編などではあまりにも尺が短いのではないかと思う。そして今作に対しては「声」という音がカギとなる作品なので映画でやる意味はあるのだろうが、決して映画でやる必要はなかったのではとも思う。

佐々木

佐々木、イン、マイマイン
監督:内山拓也
出演:藤原季節 細川岳 ほか
公開年:2020


画が綺麗で、静寂を結構な長回しで撮るため、物語と合わさってノスタルジーに浸らせてくれる作品であった。
今作は前回レビューした『罪の声』とは対照的に映画でないと表現できない作品だと感じる。この作品を通して、映画ならではの表現とは何なのかについて考えたい。


映画における映像というものは、もとより窃視的な性質を帯びている。
映画館という空間を想像してもらえばわかりやすいであろう。あの空間では、たくさんの人が監督によって撮られた映像を一方的に見ていて、画面のあちら側からこちらを見られる危険性はまったくない。
この映画というメディアの性質は映像の中の世界を覗き見している状態に近い。そういう意味で映画の映像というものは、その内容がどうあれ窃視的な性質を帯びがちなものである。


その点、今作は意識的に窃視的な映像を使用しているように思えた。引きのショットが多く、隠しカメラで撮っているような構図が多い。
主人公たちの物語を一人称でなく、あえて覗き見的に表現することで、物語全体を見通すことができ、ある人が見えていない視点も獲得できるため、結果として物語全体に感情移入でき、自分もその思い出の一員であったかのような没入感を与えてくれる。
これが、自分の故郷ではないはずの場所にノスタルジーを感じる要因である。


しかし、この窃視的な性質というものはどのような映像メディアも持ちうる。では、なぜ今作は映画でなくてはならなかったのだろうか。 それは、映画には一回的な性質があるからだと思う。シリーズ物は除き、映画は通常2時間一本で完結するようなものが多い。人生に対して2時間というものは本当に微々たる時間であるが、その中に登場人物の半生を落とし込もうとするのが物語映画を撮るという営みである。
我々の人生に訪れた過去の出来事は当時は長かったものも思い出となれば刹那的なものになる。そういった人の心、または思い出を描くのに映画というメディアは非常に優れている。誰もが経験する記憶するという行為を忠実に模倣する行為こそが物語映画という営みの本質なのかもしれない。


また、この作品は非常に構図が巧みである。佐々木の部屋でのシーンの多くは開いているふすま越しに撮られている。ふすまというものは、夏目漱石『こころ』においては、先生とKとの断絶を表すのに使われるアイテムであるが、今回はそれが全開なのである。
これは、佐々木と3人の友達の間の精神的な開放感を表しているともとれるが、そのシーンでは、佐々木と友達は一つのふすまによって隔てられた別の部屋にいる。彼らの誰もが佐々木という人間を心の支えにしながらも、理解し救ってやることができなかったことから言うと、このふすまというアイテムはここでも精神的な断絶を表しているともとれるのではないだろうか。
彼は主人公と同じくからっぽな人間だったのであろう。その悲しさを紛らわせるためにお調子者になった。彼の本当にやりたかったこととは何だろう。主人公には「やりたいことをやれ」というのは自分がうまくやりたいことをできていないことの裏返しではないだろうか。
我々の心にも佐々木はいる。やりたいことができずに虚しさを背負った孤独な自分を抱えていないだろうか。そう思うと自分の生きざまを考えたくなる。


美咲

岬の兄妹
監督:片山慎三
出演:松浦裕也 和田光沙 ほか
公開年:2020


人間の汚い部分をすべて見せられるような映画であった。見ている間は基本的にずっと不快であるが、映画において良い意味でも悪い意味でもこれほど気持ちが揺さぶられる感情は嫌悪以外にないのかもしれない、と最近思うようになってきた。
そういう意味では、ただ単に自分が好きそうな映画ばかり見るのではなく、不快になりそうなものも定期的に見ていかないと摂取するコンテンツに偏りが出てしまう。


この作品では、基本的に常に障害者差別の意識が横行している。兄妹のうち、兄は身体的なデメリットを負っていて、妹は精神的な障害を負っている。どちらも社会から拒絶されるような描写が続く。
そこで、兄妹仲良く差別から耐え忍んで生きていきますよ、という単純な構成にしないのが今作の肝である。この兄妹の中では、兄から妹への差別意識が常に感じられる。特にそれを印象付けるシーンは妹を家の中で鎖につなげてしまうシーンである。


妹の足にくくりつけられた鎖が、妹の動きに合わせて規則的に動く。その不気味なまでの一定のリズムは、機会を彷彿とさせる。兄は妹をただの物としか見ていないことを端的に表す描写だ。
] こういった多重的な障害者差別意識が作中横行する中、それらは理不尽な解雇を告げられた兄の売春行為へと発展し、差別の集大成として目に見える形となる。
さらに、売春行為が生徒間のいじめに利用されて、物語はどんどん救いようがなくなっていく。


しかし、そんなはたから見れば非常に不快な状況に置かれている当の本人たちは、皮肉にもその差別的行為の中に幸せや喜びを見出していく。
母子という関係に執着していた妹は売春行為の中で、子を授かる。結果的には中絶という選択しか残されない状況になり、つかみかけた幸せを壊すことになるのだが。
そうやって、主人公の兄妹が救われることなど一回もない。周りの人間は子供もできて手に職もあるのに、彼らは落ち続けることしかない。なんとも救いようのない物語だ。


と、前項で述べたように感じさせるような構成になっているし、製作者サイドの意図は多分こういった社会的に立場が低い人たちに焦点を当てて、彼らのひどい行いに共感とまではいかなくても同情を誘うのが目的なのではないだろうか。
では、ここで残る疑問は本当に彼らに救いは残されていなかったのだろうか。そんなことはないだろう。日本の生活保障がいくら厳しいからって、ここまでの境遇の人たちに生活保障が下りないわけがない。そして、彼ら二人は障害を抱えているのだからその補助金なども入ってくるだろう。
少なくとも彼らは病院にかかれて、家の賃貸契約ができるほど身元がちゃんとしている。その状況であれほどまでにお金が無くなるほどセーフティネットが働かないことは、まずもって現代日本では考えられないだろう。
そういった正規のセーフティネットにかかろうという気概もなく、最低の金策である売春に走る。また、知人がそういった状況なのに中途半端にかかわって結局何もしない近所の偽善者。果たしてここまで考えてもまだ、彼らに同情の余地はあるのだろうか。


onepiece

ONE PIECE FILM RED
監督:谷口悟朗
出演:田中真弓 中井和哉 ほか
公開年:2022


アニメーションとライブを組み合わせるアイデア。なんだか既視感がある。そう、『犬王』と同じ試みをしているのだ。メインキャラクターの声優としてアーティストを起用したのもまったく一緒だ。
この二作品間の違いは映画のジャンルと原作のコンテンツ力くらいだろう。それなのにどうしてこうも興行収入に差が出てしまうというのは商業映画の悲しい運命なのだろう。


そもそも製作期間を考えると、『犬王』も今作もどちらかがどちらかのアイデアを盗んだということは考えられないだろう。アニメーション映画にどのくらい脚本家の権限があるのかはよくわからないが、現代の日本のドラマシーンを引っ張っている野木亜紀子と黒岩勉が脚本を務めた二作品が同じ試みをしたというのは偶然というには少し出来すぎな気もする。
なにかしら現在の日本に彼らをこのアイデアに至らしめる要因があったのだろう。


今作からライブシーンのあるアニメーションを考えてみる。ネットで有名になったプリンセス・ウタが初めて対面ライブを行うところから話は始まる。
初めての対面ライブと言って何か心当たりはないだろうか。これはまさに今の日本におけるYOASOBIの立ち位置とまったく一緒である。それに、ウタの身なりからはどことなくVTuberを連想させるような電脳世界を生きる人といった印象を受ける。
こうやって、誰もが情報を発信出来てどこでもライブできるようになった現代だからこそ、ライブが身近なものとなり、私のような一般人よりも敏感な感性を持つ脚本家たちは、そこに問題意識を持つようになったのだろう。


同じ構想から作られたであろう映画がこれほどまでに興行収入に差ができたのを、単に取り上げた題材のコンテンツ力だけに帰着させるのはあまりに短絡的すぎる。
ここで、流行とは何かについて考えなくてはならない。今作は世間的に大流行したから普段ワンピースを見ない層にも客層が伸びたためである。
流行に必要なものは、誰にでもわかりやすい内容と適切な広告であろう。『犬王』を見てその内容をしっかり理解するには、どうしても平家物語の前提知識が必要になる。その時点で間口が狭くなるが、今作は誰が見てもわかりやすいアクション映画になっている。また、『サマーウォーズ』のオマージュのような人形が異世界を流れていくようなポップな映像も新規客を獲得することに貢献しただろう。
また、広告戦略として今作は入場者特典を何回にも分けて配布することで、リピート客の獲得に至った。こうして、今までのワンピースファンと新規客の両方をそれぞれ広告と内容で獲得できたため、これほどの流行が起こったのだろう。


作中、ルフィは海賊王になる理由について「新時代を作るためだ」と語るが、この映画自体が映像にあふれる現代という新時代にインスピレーションを受けて作られていて、ネットの世界に生きる人々の、さらなる新時代に起こる道徳の不足について考えさせられた。


プラチナ

プラチナデータ
監督:大友啓史
出演:二宮和也 豊川悦司 ほか
公開年:2013


ありがちなSFチックな監視システムを導入した刑事ものだなという印象が最後の最後まで覆らなかった。
10年近く前の映画なので仕方ないとは思うが、それにしても小説をわざわざ映画として表現しなくてはならない理由が見つからない映像の連続。展開もすべて読み切れる。今作のドラマは先の展開を読ませないミステリのようなものではないが、流石に今作が観客に与える驚きが、少なすぎるように感じた。


そもそも、こういったSFチックな監視システムを導入するという試みが今作の新しいところで、のちの作品がそれを模倣しているのかもしれないが、10年もたつとそういうアイデアはどこでも見られるようになってしまっている。
私が人生で触れてきたものの中にもそういったアイデアの作品は多々ある。漫画でいえば『psycho-pass』、ドラマでいえば『絶対零度』なんかがその代表例だろうか。それらの作品に慣れてしまっている我々からすると今作の遺伝子を使った犯人のプロファイリングはもう見飽きたよ、と感じるだろう。


では、他に今作の強みと言ったら何だろう。まず考えられるのはサスペンスとしてハラハラドキドキさせられる感覚だろう。
しかし、この映画は全くと言っていいほどハラハラしない。理由は単純で先の展開が読みやすいからである。不穏な映像やわからないものを目の前にしたとき、人間はハラハラするものだ。
今作では、正直言って事件が起こった瞬間に犯人が絞られるし、主人公が警察に冤罪で追われるシーンも警察があまりにも無能すぎて捕まる気がしないのでまったく不安要素がない。急にカーチェイスが始まることもあり、なにかしらのコメディ映画を見ている気分になる。


まず、自分が犯行を犯したのであったら主人公はあんなにも自主的に遺伝子鑑定をしないため、主人公は犯行に及んでいないとわかる。
次に、プラチナデータのシステムが完璧なのだとすると鑑定に掛けられた遺伝子は主人公の物である。とすると、真犯人はその遺伝子サンプルをすり替えられる内部犯であることが分かる。
すり替えられるのは白鳥か水上、志賀あたりだろう。白鳥は主人公の逃走を助けているようなので候補から外れると考えたら犯人候補が二人に絞られてしまう。
途中、ミステリのタブーと言われる二重人格が出てきたときには少し驚かされたが、結局はそれも犯人ではなかったし、犯人だったところで唐突すぎて面白くない。以上のような考察が開始30分程度で立ってしまう。後の90分は何を楽しみに見ればよかったのだろうか。


といったように、SFのアイデアとしてもサスペンスとしても新鮮さに欠ける今作からわかることは、小説原作の映画を作ることに映画ならではの表現を新たに増やさない限りないということだろう。
アイデアだけでいうと小説の原作がある以上、同じアイデアを映画で新鮮なものとして見せることは無理である。また、今作みたいに10年後に見返す場合、そのアイデアが秀逸なほど模倣が繰り返され、新鮮味が失われる。なので、小説原作の映画は『何者』みたいに表現方法を工夫して映画でやる意味を作らないといけない。
何年後でもいい映画だとして見られるものになるためには、ストーリーのアイデアよりも映像としての面白さのほうが重視されなくてはならない。


名古屋

skip the nagoya
監督:瑞陵高校映画研究部
出演:瑞陵高校映画研究部
公開年:2022


母校での文化祭で上映された自主制作映画を視聴。映画甲子園に出すだろうとのことなのでここで取り扱うことにした。
5分程度の作品なので、公開されたとき名前を憶えていたら読者の方々にも一度見ていただきたい。


この作品は、タイトルからわかる通り所謂「名古屋飛ばし」を題材にしたコメディ映画である。私が知っている限り母校の映画研究部は社会派な題材を好む傾向があるのでコメディということでまず度肝を抜かれた。
そしてこの作品では「名古屋飛ばし」という一種の身内ネタをさらに学校内の身内ネタで表現している。とても込み入った入れ子構造である。先ほど視聴を勧めた身から出る発言ではないが、この作品はニッチな身内ネタがあるから面白いのかもしれない。私の環境からは正常な判断が下せない。


そしてよく考えると「名古屋飛ばし」を題材にしている時点で割と社会派なのかもしれないと気付く。流石に作中のようなドームツアーでナゴヤドーム(最近バンテリンドームに改名になったがここではあえて旧称を用いる)だけを飛ばすみたいなことはまず起こらないが、美術館の特別展などで飛ばされることはしょっちゅうである。
何が厄介かというと、名古屋にはそれなりの人口が集まっていて興行的に成立しそうなのに飛ばされる謎のもやもやである。私の経験上、名古屋市民は名古屋のことが大好きで、プライドを持っている人が多い。それゆえの「我々の名古屋が飛ばされた……」(誇張あり)という自意識の表れとして「名古屋飛ばし」という言葉が作られたのではないだろうか。
こういった市民性を反映している事象を取り扱うのはポップなようでいてかなり社会派である。


私の人生の中で名古屋以外で「○○飛ばし」がほぼ固有名詞化している事例を知らない。これは非常に興味深いことだと思う。その地域に住む人口が割と多く、そして住民に一種のナショナリズムが浸透していて、かつ割と頻繁にイベント会場が飛ばされないと生まれない言葉というのは非常に貴重である。
ここで、タイトルに注目すると名古屋という固有名詞が小文字で表現され、その前に定冠詞が付けられている。これは私に送られてきたファイルの名前であり、正式なタイトルなのかはよくわからないが、この英語は不自然である。普通なら冠詞なしで頭文字を大文字にするだろう。
もしかしたら、彼らはnagoyaという一般名詞で表される概念を新たに生成したのかもしれない。私は、「名古屋飛ばし」はそれ一つとして固有名詞だと思っていたが、the nagoyaという概念を飛ばすという本来のNagoyaの意味からの脱却を試みたのであったら非常に面白い。


Nagoyaは都市として、地名としての名古屋である。しかし、the nagoyaという概念はもはや都市としての機能から抜け出し、なんだかわからないけどよくイベントが飛ばされる対象としての哀愁を帯びたものなのである。
「名古屋飛ばし」という事象を題材にしながら普遍的な哀愁と怒りを表現しているなら決してこの作品は身内ネタではなく誰にでも受け入れられる内容として読み取ることができる。
これから先、よくわからないけど忘れられる影の薄い事象の総体に対する揶揄として小文字のnagoyaが使われるようになったらすごく面白いと思った。まあそんな未来訪れるわけもないのだが。


xの献身

容疑者Xの献身
監督:西谷弘
出演:福山雅治 柴咲コウ ほか
公開年:2008


旅先でガリレオシリーズが再放送されていたのをたまたま見たことから、本作を見るに至った。普段テレビは全くと言っていいほど見ないのだが、こういう出会いがあるから旅先で見るテレビというものは面白い。
その作品の面白さは置いておいての話だが。


今作のいいところは、売れっ子作家東野圭吾原作の映画であるからか、非常に構成が上手いところだ。だいぶ昔の映画であり、原作の小説もかなり人気シリーズなため、もう許される気もするが、一応以下ネタバレを含む。
物語の核心に迫るところでもあるのでまだ未視聴でネタバレを食らいたくない方は一度視聴してから戻ってきてほしい。ミステリのネタバレほど罪なことはない。


この作品は、サスペンスの形式をとっている体で実はミステリ的な要素があった、という叙述トリック的な面白さがある。物語の序盤から我々観客に犯人と犯行の様子を提示して我々にすべてを知ったような気持ちにさせて話を進行させる。
そのため、作中の大半の時間は犯人を知っている状態で警察が観客が持っている情報を追うのを見ている、というなんとも退屈な時間で構成されている。と思わせておいて未提示の情報で一気にひっくり返すというミステリ的快感を味わえる。


人の脳というのはバイアスに弱いもので、一度信じ込んでしまうとそのストーリーに多少の違和感があっても見逃して自分の考える都合のいい事実のみを受け入れるものである。
なので、見事にこういった叙述トリックを決めることができるのである。かくいう筆者自身も思いっきり引っかかった張本人である。考察ドラマ好きとしてこんな初歩的な叙述トリックに引っかかったのが悔しいのでこのレビューを書き始めたといっても過言ではない。
ここで紹介することで読者の方々にも引っかかってもらい、私の恥を中和してやろうという魂胆である(もしくは、誰も引っかからず私の恥をさらに上塗りすることになるか)。なので今まで一度もしたことがないネタバレ注意報を出し、本作の視聴に誘導したわけである。


とまあ、このような話を最後まで続けてもいいのだが、流石に見苦しいので今作から考えたことを少し書こうと思う。
まず私は東野圭吾作品が多分苦手だろうということだ。多分とつけたのは恥ずかしながら私の逆張り精神故、彼の書く作品を一つたりとも読んだことがないからである。映画を数本見たからと言って決めつけていいのかという考えもあるが、本作とは監督の違う作品で『プラチナデータ』も観てその二つに共通する特徴が苦手なことに気付いたのである。
本作も『プラチナデータ』も観客にこう見させようという魂胆が見え見えで、それ以外の見方をかなり制限するような作品である。そういった作品はわかりやすい反面、観客側の自由な想像を封じる。それは観客側(小説でいえば読者側)に解釈の主導権を握らせてくれないということでもある。
筆者自身考えながら映画を見ることが好きということもあって、受動的な鑑賞体験はかなり息苦しいものだった。作品を見ている立場で主導権をよこせというのも横暴な話であるが、私としては映画に限らず作品というものはそれを見る側との相互関係の中にその評価が現れるものだと思う。
そういった側面でこの作品を見るのは少し苦しかったため、構成の巧みさと差し引きして評価をつけた。叙述トリックに引っ掛けられたのが悔しかったから不当に評価を下げたとかでは決してない。