COLUMN:2022年東京国際映画祭で見た映画やトークイベントについての覚書

本記事では、執筆者が東京国際映画祭で見た映画やトークショーについて、それぞれ率直なコメントを載せた。映画批評にはさまざまな形があるが、その際に感じたことを書き留め、そのまま提示することが、その場での生のコメントを臨場感を持って伝えられると考えるので、これらのコメントは、ほとんど映画をみた直後にメモしたものを使った。一部、『エドワードヤンの恋愛時代』、およびそのトークショーについては全く新しく後日に執筆したも混ぜた。


「カイマック」
「孔雀の嘆き」
「1976」
「鬼火」
「エドワードヤンの恋愛時代」
「パシフィクション」
「生きる living」


『カイマック』、面白かった。人間ドラマを上手くエンタメに昇華させていた。2組の夫婦の格差を同じ住居の上下で表現していた。階層を越えた物の行き来が面白かった。その他は、テーマとして、子育て、結婚生活、自閉症、セレブ、浮気、女性同士、男性の男性性の弱さ、女性の男性性の強さ、田舎と都市などがある作品だった。


『孔雀の嘆き』、面白かった。複雑な人間模様を上手く描いていると思う。密売をしているボスの背景を描いたのもよい。スリランカのことを少し理解できた。感染症、女性の権利のなさ、人身売買、欧州への搾取、貧困などある作品だった。演出はシンプルだが、まあよかった。


『1976』の作者の意図は理解した。静かな恐怖を描くというので、露骨な暴力シーンを排除し、いつ何が起こるか分からない恐怖感をBGMとともに駆り立てるつもりだろう。まあホラー系と同じ仕組みだ。ただ、最後のオチがもっと怖くてもよく、俳優の演技によりすぎではないか。最初の連れて行かれるシーンは怖い。


『鬼火』、途中からしか記憶がない。よかった。簡易的に色々描かれていて面白い。ゲイ、ミュージカル、消防、王族。


『エドワードヤンの恋愛時代』、素晴らしかった。それに尽きる。


『パシフィクション』、映像は良かった。なかなか世界観に入れなかった。直前に見た『エドワードヤンの恋愛時代』のせい。ようやくクラブのシーンで見方が分かった。


また、『エドワードヤンの恋愛時代』についての濱口竜介さんのトークイベントに参加した。濱口さんは、映画の終盤について以下のように語っている。「結果として、彼らはどうなっていくかと言うと、最初は顔が見えるのだけれども、この映画は後半にいくに連れて、彼らが顔が見えなくなっていく、闇の中に浸されていくようになっていって、都市の光っていうものが届かないような場所でコミュニケーションし始める。そのときに語られていることっていうのは、それまで語られているようなこととは少し違っていて、暴力的なことではなくて、どちらかと言えば親密な、彼ら自身が本当に思っていたことを辿りなおすような、そういう黒い顔、黒い画面とともに、そういう今までとは少し違った声が生まれてきている、そういう印象があります。」この素晴らしい批評的なコメントを聞いて、私自身も東京という「都市」に住むものとして、その「光」の中で様々な喧騒に巻き込まれながら生きているが、ふとした瞬間に素の自分に戻れるような瞬間——それはまさに映画館の中の「暗闇」の中で——が存在していること、そこに生きる喜びを見出していることを強く実感した。


クロージング作品である『生きる living』、1952年のイギリスを舞台に、官僚が病に直面するものの、仕事に励むことで生きる喜びを見つける、心温まる物語映画。映像は単一の色に抑制されて、きりっとしていた。イギリスで黒澤明の原作がヒットしてリメイクしたことから、日本とイギリスに共通する仕事の美徳を感じた。イギリスでこういう人間ドラマがウケるんだと新鮮だった。


本記事は以上となるが、執筆者である私自身の視点での記事を読んで、読者が少しでも映画祭の雰囲気と私の映画の見方が伝わったとするとこの上なく嬉しい。