レンサイ特別編:東京国際映画祭2022


それは毎年、秋と共にやってくる。そう、東京国際映画祭である。幸運にも私は、去年に引き続きプレスとして東京国際映画祭に参加することができた。去年は様々な事情で忙しく、映画祭に参加したのか、それともただ単に映画を観ただけか、分からないほどであったが、今年は映画祭というものの輪郭を掴めたように思う。
私は皆さんに、映画祭の雰囲気を知ってもらい、来年は是非現地にたくさん足を運んで映画界を盛り上げて欲しいと思っている。しかしこの「レンサイ」はあくまで映画のレビューを書くところだから、これを読んでも、ただ映画のレビューを読むという体験しかできないかもしれない。それは初めに断っておく。
ただそれでも私は、レビューを重ねた先に、映画祭というものが読者の目の前に立ち現れることを願っている。だからこそ、学業に忙しい中ではあるものの、筆を取り、映画のレビューを綴ることにする。

ケイコ

ケイコ、目を澄ませて
監督:三宅唱
出演:岸井ゆきの 三浦友和 ほか
公開年:2022


本当なら、三宅唱監督のQ&Aに参加できるはずだった。しかしその前のツァイ・ミンリャン監督のQ&Aが長引いて、受付の時間に間に合わなかった(私は悪くない)。なのでプレスなのに伝聞になってしまうのだが、どうもそこで監督は「観終わった後に、今までと違うように街が見える」ような映画を作った、という内容のことを言っていたらしい。それは私がもし参加できたら聞こうと思っていたことの答えでもあった。


他の映画と比較して、街の今の風景に焦点が置かれていることは、試写を観ている時から感じていた。荒川周辺や、浅草の下町の風景。コロナでみんなマスクをしているところもそのまま写し、注釈のように2020という文字が画面に表示される。それは文京区に住む自分にとっては、見慣れた風景だった。しかしその身近すぎる時間と景色が、フィルムでうつし撮られた物語の背景になることで、全く違う印象になる。

この映画は「記録」なのだと思う。2020というマクロな記録でもあるし、ケイコという1人の女性のささやかな記録でもある。そしてフィルムだけではなく、主人公の弟が手に持った(画質あまり良くない)カメラや、ジムに置いてある(これもだいぶモデルが古い)テレビ、はたまたケイコが書く日記の筆致や絵も、その記録を担う一員となっている。それらがすべて等価に、この映画を形作っているところが私は好きだった。


一方でケイコの振る舞いには、少しもどかしさも感じた。ジムの会長を初め、周囲の人はみんないい人なのに、ケイコが自分で決めず、悩みを相談したりもしないせいで、彼らの善意が空振りしてしまっているのだ。物語に感情の波を付ける上では必要なことと思いつつ、ちょっとこれでは周りの人が気の毒に感じてしまう。観ていない人は信じられないかもしれないが、エヴァンゲリオンを観ている時に感じるようなもどかしさだった。

これがシンジ君くらいのティーンズなら、自分をコントロールできなくても仕方ないけれど、大人がそうなってしまうのはどうなのか、、。そんなことを考えてしまう自分はやっぱり冷たいのかなあ、と思ったりもしてしまう。とはいえ、主人公を特別扱いするのは自分はあまり好きではないのだ。だからこそ、終わらせ方はとても良かった。個人の記録の映画が、1人ひとりの記録の映画に広がった瞬間だった。


イグチ

ひとりぼっちじゃない
監督:伊藤ちひろ
出演:井口理 馬場ふみか ほか
公開年:2022


早めの時間についた私は劇場の真ん中の席に座ることができた。映画開始直前になると、周囲には海外からのプレスも含め、割と人が入っていることを確認できた。しかし映画の途中で退席する人が結構いて、終わった時には人がまばらになっていた。退出しにくい真ん中の席でなかったら、私も最後まで見ていなかったかもしれない。逆説的なようだが、それは映画がつまらないということを意味しない。この映画が苦痛だったのは、理解を跳ね除けるような映画だったからだ。


この物語の中で大きな存在である、宮子さんのセリフはやけにまどろっこいし、感情も入っていないようである。それは演じている馬場ふみかの演技が下手なだけなのかと最初は思うし、途中で帰った人は今もそう思っているだろう。ただどうもそうではない、というのが最終的な感想である。一見演技が下手に見えるのは、宮子さんというキャラクターが超現実的で、普段の経験の枠におさまる人ではないからなのではないか。

では一体、宮子さんとはどういう人なのか?私は、見ている途中で、宮子さんは(何らかの理由で)人物を区別することができない人ではないかと思った。そしてそのことを完全に受け入れている。井口理演じるススメが彼女に惹かれるのは、その無分別さが、胎児と母親のような関係を思い起こさせるからではないか、とも思った。胎児は母親を区別できず、母親も胎児を区別できない。ただ互いに唯一。そんな関係。そう考えた瞬間、ただの棒演技のようだった映画が、凄まじいものに変わった。


原作の小説があることは知っていたので、見終わった後、ドキドキしてあらすじや監督のインタビューを確認したら、全然そんなことは書かれておらず、普通に不器用な男の恋愛として記述されていて、拍子抜けした。原作が好きな人も、気持ちが丁寧に書かれているから好きというコメントが、、。だとすれば、映画は原作の映画化という面では大失敗作かもしれない。だが、私はこの映画が大失敗作だとは到底思えない。

主演を演じている井口理も、この映画に、作者の意識している以上のものを見ているはずだ。そして、超現実的な世界に身を置いて、本業のバンドking gnuの音楽を更に深化させようとしているはずだ。そうでなければ、この映画について、あんなに気配の入った宣伝を自分のSNSアカウントでするはずないから。もしかしたら、井口理が何も考えていないだけかもしれないけれど、私はこの可能性を信じたい。信じるか信じないかは、そしてこの映画を面白いと思うか思わないかは、視聴者に委ねられている。


カイマック

カイマック
監督:ミルチョ・マンチェフスキ
出演:サラ・クリモスカ カムカ・トリノヴスキー ほか
公開年:2022


文化祭でお世話になる偉い方に挨拶ができたのもあると思うけど、上映が終わった後は、満足した心持ちだった。しかし今になって思うのは、風刺というのはいっときは面白いものの、時間が経つにつれて急速にその効果を失ってしまう、ということである。結構会場で笑いとかもあったのに、なぜ賞にかからなかったのかと思ったりもしたけれど、審査員は先を見越していたのかもしれない。


監督が描こうとしているのは、マケドニアで多分実際に起きているであろう、深刻な貧富の差というシリアスな問題である。ただそれを真正面から描くと見ている方の心理的負担が大きい。そのために監督が採用したのが、キャラクターを(ステレオタイプ的に)誇張するということである。特に金持ちの女性アナウンサーは、プライドが高く他人を見下すという典型的な悪人を演じていた。

金持ちがマンションの上層にいて、貧乏人は地上にいる、という舞台も含めて、ドラマ的な分かりやすさを優先しているが、それがかえって鑑賞者との距離を生んでいる。どの人物も、ドラマ内での与えられた役割から出ることがないので、鑑賞者は彼らとの共通点を見つけるのが難しいのだ。もしもっと人に近づくならば--貧しい村の少女であれ、高層階のアナウンサーであれ--、そこに鑑賞者は共通点を見出し、彼らのことを忘れられなくなる。


もちろん、ドラマ的に分かりやすいキャラにすることで、物語の展開のテンポが良かったことは確かだ。マンションの上層の話と、地上の話が入れ替わりつつ、最後はその2つの物語が交差する。構成も含めて非常にきっちり作られており、最後まで全く退屈することがなかった。しかし、そのことと「忘れ難さ」というのは違う次元の問題なのだろう。どれだけ登場人物と心から打ち解けあえるか。それが忘れ難さに関わる。

本作で忘れられないのは、むしろ映像表現かもしれない。初めは太陽の露光をそのまま用いたような、光に溢れた街の映像が映し出されるかと思いきや、最後は建物の境界がなくなり、街の明かりが溶け合うような夜で幕を下ろす。一人の監督がこの振り幅を同じ作品に入れられるのはすごいし、それが目まぐるしく変化する物語に調和しているのも面白かった。監督の技術の高さを感じさせられた。この作品を日本で最初に公開してくれてありがたい。


波の去る時

波が去るとき
監督:ラヴ・ディアス
出演:ジョン・ロイド・クルス ロニー・ラザロ ほか
公開年:2022


3時間長の映画鑑賞の中で得た結論が、「映画は喜怒哀楽を味わうものなのだ」というシンプルなものだった、といえば逆にネガキャンのようになってしまうだろうか。ただ、この一見単純な答えを得られたことは、映画祭で毎日のように映画を浴びたことの一つの収穫であった。毎日見ているからこそ、映画ごとに自分の集中力に差異があることに気づく。映画祭のおかげで、映画の感覚をメタ的に捉えることができた。


かつて犯罪を犯した元警察官が、新たに犯罪を犯した元部下を捕まえるために牢屋を出て彼を探す。その無慈悲な状況の中で、追うものと終われる者、元警察官の登場人物2人の感情が非常に際立っている。派手に喜び、怒り、悲しみ、ダンスを踊って楽しむ姿からは、犯罪者を取り締まる者も心を持っている一人の人間で、機械的なシステムの一部ではないのだ、ということが伝わってくる。


ドゥテルテ大統領が麻薬売買の厳罰化を進めたことは、事実としてニュースで前から知ってはいて、そのことを深刻な問題だとは全く思っていなかった。実際、多くの人にとっては犯罪が減って良いことなのかもしれない。ただ、何事にも割りを食う人はいる。取り締まる者のことを、普通のニュースの記事では見逃してしまう。ニュースは事実を伝えるものであり、取り締まる者のいわば内側の部分は、事実の把握では捉えることができない。


この映画もまた、そこで行われた事実のみを見るならば実に冷酷で殺伐とした内容である。しかし映画の中では、事実に付随して感情がある。ただ部屋に泊まるだけでも、その事実の中に怒りや喜びなどの感情が含まれている。単純な事実の中にある感情を、この映画では丁寧に開いているように私は感じた。その一つ一つを取りこぼさずに含めた結果、3時間ごえの長い映画になったわけで、長さはそのまま感情の密度だった。


孤独な彼らの姿を見るのはなかなかにつらい。しかし喜怒哀楽には本質的に孤独が付きまとっているのではないだろうか?感情をぶちまけるということは、人の中にいるとできないことである。その意味では、人のしがらみを抜けた外れた人の存在は、映画の重要な要素である喜怒哀楽を含めるのに必要とされているのかもしれない。私たちは人に囲まれた中で、映画を通してその喜怒哀楽に自分を重ねるのだ。


百花

百花
監督:川村元気
出演:菅田将暉 原田美枝子 ほか
公開年:2022


今年は初めてプレスとして、監督によるQ&Aの場に呼んでいただけた。ただ映画を見られるわけではなかったので、当日に1500円払って、普通の池袋の劇場で観てから行った。Q&A付きの上映は当日500円なので、プレスで参加したかったがために、もしかしたら無駄なことをしていたのかもしれない。実際、プレスの利点は近くの席に行けるだけで、100%質問できるわけでもないし、、(それは実際参加してみて分かったことではあるが)。


Q&Aでは、川村監督と、「宮松と山下」の監督もされている平瀬謙太郎さん(本作では脚本)が登壇された。お二方に興味があったし、色々聞きたいと思ってもちろん参加しているわけだけれど、実際何を聞こうか、と考えるとこれが意外と難しい。会場にいる人は演出する上での裏話を聞いていて、その話は興味深かった(例えば、菅田将暉演じる泉が、母親の紙の束を発見するところの演出など)。が、演出された結果のものはもう既に味わっているわけで、もうそれで十分、わざわざ裏話聞くほどではない、と思う自分がいた。


あるいは演出志望の人としてであれば、もっと実践的な面での質問ができたかもしれないけれど、Q&Aの場とは少し違うかもしれない。そもそも、映画の中身を実際に体験した人も、原作も、脚本も、川村監督なわけで、そこでは全て自己完結しているわけだ。つまりQ&Aがif...を聞く場であるなら、if...が生まれるのは脚本を務める平瀬謙太郎さんという外部の人との関わり合いにしかない。そういう結論に至り、そのことを聞こうと思って手をあげたが、指してはもらえなかった。残念だ。


物語や演出に関して言えば、面白かった。それは、認知症になった人がこのように世界を知覚し(スーパーのシーンは圧巻だった)、その側にいる主人公が、このように世界を感じるんだ、という発見があったからだった。それは当人にしか分からない未知の世界で、それを届けてくれたことに感謝したい。Q&Aに来ている人も、似た体験をした人が結構来ているみたいで、そうした当事者の世界をつなげる役割も果たしていたのだなと、思った(どういう人がこの映画に興味を持ったかを知れることも、Q&Amの良さだ)。


同じものを共有しているからこそ、それを元に表現したものに対し、色々意見とかを言ったり出来るのだと思う(そこにはif...がある)。その意味で、自分がプロデュース的な質問しか思い浮かばないのは仕方ないし(そういう人は、逆に観て映画を体験することに価値がある)、似た体験をした人の質問が、映画の内容を広げて行くのだ。その作品を超えていく有機的な広がりをQ&Aの場で実感したできたことは、映画祭に参加できたことの価値だったと振り返って思う。